ジョンとヨーコのhaiku
ジョン・レノンが俳句に強く影響を受けたのは、有名な逸話のようだ。「俳句は今まで僕が読んだ中でも最も美しい詩だと思う。僕も自分の詞を俳句みたいにシンプルにしていきたいね」と語った彼は、一九七一年の来日時に、東京の湯島の骨董店で芭蕉の古池の句の短冊を買ったという記録も残る。
このような傾向はおそらく彼に限らないことで、異なる芸術ジャンルの西洋人が俳句に深い関心を示すのは僕自身も幾度となく体験してきた。例えば、ロンドン滞在時に僕は、パフォーマンス・アートで著名なイギリス人女性のスタジオをグループで訪問した。写真や絵画・彫刻などいろいろな領域の人がいたにも関わらず、「今日はね、haikuの詩人も来ててね」と僕が紹介されると、その彼女は眼を輝かせて僕にばかり矢継ぎ早に質問してきた。つい最近はオンラインで、東欧出身でイギリス在住の著名な絵本作家とグループで会話した。やはり彼も「今日はhaikuの詩人も来てくれて嬉しい。haikuは物事を凝縮するすばらしい技術だ」と眼を輝かせた。そこには異国趣味の神秘化もいくらか混ざってはいるだろう。だが、俳句が西洋の様々な芸術領域から強い関心で見られがちなのも頷けなくもない。
というのは、必ずしも制作のテクニックを重視せず、その背後にある文脈や思考を重視する現代アートは、シンプルな外見にもなりやすく、結果としてその佇まいはhaikuのシンプルさとどこか似通う。また、芸術を社会から隔絶したものとせず、現実社会や日常生活に開こうとする姿勢も現代アートにはあるが、それもどこかhaikuの大衆性に通じる。そう思えば、haiku的な何かは、特に現代アートには重要なヒントになるのかも知れない。
そんなことを考えさせられるもう一人のアーティストが、ジョン・レノンの妻でもあるオノ・ヨーコだ。彼女自身も詩を書く。それはhaikuではないが、例えば彼女が一九六四年に出版した有名な詩集『グレープフルーツ』は、しばしば「haikuみたい」な詩として西洋では紹介される。
バケツで水に映る月を盗みなさい
水面から
月が見えなくなるまでそれを続けて
彼女は決してhaikuと無縁でもなく、二〇〇九年にロンドンで、鉄道駅の利用者がTwitterを使って投稿するというユニークなhaikuコンテストが開催され、オノ・ヨーコはその審査員を務めた。
興味深いことに、彼女の詩の中には、彼女が手がけたパフォーマンス・アートのコンセプトをそのまま書いたような詩もある。彼女はいわば、詩(言葉)とアートの世界を行き来することで前衛アートの可能性を追究した。ひょっとするとhaiku的なものが持つ凝縮力がそこでは効果的だったのかも、とも思う。
(『海原』2022年10月号より転載)