2021年12月17日金曜日

■連載 【抜粋】 〈俳句四季12月号〉俳壇観測227/三太・若狭男・まりうす——オジさん世代の活躍  筑紫磐井

 三人の物故俳人

 飯田晴主宰の「雲」九月号を読んでいたら「三朗忌特集」が組まれていた。鳥居三朗(昭和一五年~平成二七年)がなくなってから六年目であるという。飯田晴は鳥居三朗の夫人であり、鳥居三朗なきあと「雲」を継承した。私にとっては、鳥居三朗は旧知の人であり、むしろその前の鳥居三太で親しんでいたからこの名前の方がなつかしい。「三朗忌特集」でも鳥居三太を語っていた人もいた。私の知る鳥居三太はまず「童子」の編集長であり、洒脱な人であった。「童子」編集長退任後、今井杏太郎の「魚座」に参加し編集長をつとめた。「魚座」終刊後自ら「雲」を主宰した。「魚座」「雲」を通じて若い人を育成し、その代表が同世代を代表する鴇田智哉である。句集に『小林金物燃料店』『太郎冠者』『山椒の木』『てっぺんかけたか』がある。

 三太で思い出す愉快な話がある。本人からじかに聞いた話である。「童子」の編集長であったころ、句会に若い女性が参加したことがあった。句会終了後、三太はその女性を控え室に呼び話をする。「こんな明るい晴れた日に、若い女性が何で句会になんか来るの。人生ではもっと面白いこと、楽しいことがあるだろうに」。その後女性が俳句をやめたか続けたかは知らないが、いかにも三太らしいエピソードだと思う。「俳句って楽しい」などと浮かれずに、若い身の上でなぜわざわざ俳句を選ぶか考えてみたらという、少しシニカルな愛情だと思う。

 鳥居三太の名前を見ると思い出されるのが遠藤若狭男(昭和二二年~平成三〇年)である。遠藤若狭男は鷹羽狩行の「狩」に入会し、「狩」の若手として片山由美子と双璧をなした。「狩」の編集長後、平成二七年「若狭」を創刊したが、平成三〇年十二月没。惜しまれながら「若狭」も終刊した。句集に『神話』『青年』『船長』『去来』『旅鞄』、評論集に『鷹羽狩行研究』『人生百景』がある。若くは文学青年であり小説集ももっていたが、三十代半ばとなり狩行に師事し俳句に復帰した。没後三年目の令和三年五月第六句集『若狭』が遺族により刊行された。


青き踏むときをり死語のこと思ひ

麦秋やはるかに日本海の青

ふるさとは歩くがたのし草ひばり

わが死後のわれかも知れず秋の風


 もう一人思い起こされるのが七田谷(なだや)まりうす(昭和一五年~令和三年)だ。彼が九月二五日になくなったことを新聞が報じていた。「天為」の創刊に参加し、有馬朗人の片腕として活躍して、俳人協会の理事も務めていた。晩年難病に苦しみ、車椅子生活を送っていたので、余り会う機会は多くはなくなっていた。本名は灘山龍輔である。句またがりで、「なだや/まりうすけ」と読んだところは、鷹羽狩行に似ている。


総合誌の新しい企画

 鳥居三太、遠藤若狭男、七田谷まりうすといったオジさん世代をなぜ回顧するかと言えば、実は富士見書房から出ていた「俳句研究」が、一時期この団塊以前の世代を集めていろいろな企画に導いていたからだ。既に「俳句」の編集長海野謙四郎が色々斬新な企画を打ち出していたことは前号でも紹介した(黒田杏子の『証言・昭和の俳句』や若手による『12の現代作家論』等)が、この直前に「俳句研究」編集長の赤塚才市氏、中西千明氏らも新企画を打ち出そうとしていた。どうも俳壇全体が胎動しようとする、そんな時代であったのだ。その一つに、鳥居三太、遠藤若狭男、七田谷まりうすのほかに、鈴木太郎、小島健、橋本榮治、筑紫磐井等を加えて超結社吟行会を盛んに催した。その最初が、赤塚才市編集長による平成七年九月「出雲崎吟行」であったと思う。


海青くして涼しくて出雲崎     遠藤若狭男(狩)

弟切草雲中に佐渡在すなり     小澤實(鷹)

涼しさは夕日に遊ぶ五合庵     小島健(河)

良寛を讃へながらも土用波     鈴木太郎(杉)

手毬置く二枚重ねの夏座布団    鳥居三太(童子)

山の背に晴・雨を分けてほととぎす 筑紫磐井(沖)

あらうみの古志の銀河は神なりき  七田谷まりうす(秋・天為)


 「俳句研究」編集長が中西千明氏に引き継がれてもこの企画は続き、平成九年七月「安曇野吟行」が行われている。参加者の重複を除くと次のような顔触れが加わった。面白いのは、編集長も同行して句会の様子を逐一楽しんでいたことだ。何か編集のヒントになったことでもあったであろうか。


草田男句碑罪なく咲けるたんぽぽか 橋本榮治(馬酔木)

豊かなる水を導き山葵植う     棚山波朗(風・春耕)

安曇野の奔流に散る遅櫻       伊藤伊那男(春耕)

(以下略)

※詳しくは「俳句四季」12月号をお読み下さい

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