2014年9月19日金曜日

小川軽舟の十句 (2)   竹岡一郎

踊子がポケットに入れくれしもの   「近所」

高野素十の「づかづかと来て踊り子にささやける」を勿論、意識しているだろう。素十の句では奔放なのは男だが、掲句で奔放なのはむしろ女の方である。踊る途中の瞬く間に、僅かな動作で呉れたのだ。踊子の、やや強引な、颯とした仕草が見えるようだ。お侠(きゃん)な踊子であれば言うことはない。

踊子は何を呉れたのだろう。ポケットに入る物だから、ちょっとした好意の品であろう。踊り子に対する者が子供か、大人かで呉れる物も違ってくる。平成元年作。

秋の蝶磐石に鈴振る如し      「近所」 

秋の蝶であるから、冬蝶ほど弱っていないにせよ、もう静かなのだ。何度か翅をはためかせる、その無音の動きを、作者は音として感じた。それほどまでに静寂は満ちているのである。鈴として感じたのだから、蝶の翅はまだ凛として天を指すのだ。

この句の眼目は、実は蝶でも鈴でもなく、磐石である。蝶が主旋律を表わすなら、磐石はその旋律を支える通奏低音である。神の如く冷たく静かな磐石の上で、蝶の儚い小さな動きは鈴として煌めくのである。平成三年作。

古唐津の草木(さうもく)も露深き頃    「近所」

桃山期の唐津の向付であろう。大平鉢であれば尚良い。完品でなくとも、陶片で良いのだ。甕屋の谷窯なら、昏く緑がかった艶やかな下地に、一息に描かれた沢瀉を思う。市ノ瀬高麗神窯なら、明るいさっくりとした土に描かれた、黒色の強い撫子を思う。あらかじめ水に通しておけば、草木の絵は生き生きとして、盛られた肴を美味くする。

桃山の唐津は陶片から勉強すると良いのだ。完品ならとても懐が続かないが、陶片ならポケットマネーで様々な窯の様々な絵を味わえる。美術館でガラス越しに見たって仕方ない。桃山の焼物は、濡らして使って、初めてその妙が分かる。山河の寂静を教えてくれる。

「露深き頃」とは言い得て妙で、桃山の唐津の、思い切り簡略化された絵には、露の深さが良く似合う。ここで接続に「も」を用いているのは重要であって、これを例えば「や」や「を」に置き換えると、古唐津と「露深き頃」は分離して、句が台無しになってしまう。

掲句は、他の諸々のものと共に、古唐津の草木も「露深し」という時候に包含される意であるが、実は水(=露)に濡れた古唐津は、露深き頃の山野の雰囲気をそのまま体現しているのである。即ち、「露深し」なる時候の具象化である古唐津の草木は、「露深し」なる季語と相互に包含し合っているのだ。平成五年作。

かの男女つぎの稲妻には在らず     「近所」

芝居の一場面のようでもある。道ならぬ恋とか駆け落ちとか心中とか、物騒なことを思うのは、「稲妻」という劇的な、エロスも仄かに感じさせる季語のせいだろう。季語を「雷」と置き換えてみれば、稲妻の必然性が良く分かる。稲が実るしるしと見なされる事から「稲の妻」と呼ばれる季語には、恋愛が良く似合う。人にも自然にも、恋なくして豊饒は成立しない。

「かの」とあるから、作者はかなり離れて二人を目撃したのである。稲妻に一瞬浮かび上がり、次の稲妻には掻き消えている二人は既にこの世の者ではないかもしれず、「稲の妻」なる民話性を鑑みるなら、そもそも人でないかもしれぬ。平成十二年作。

夕方は雲あふぐ刻草の花        「手帖」

最初読んだときは、只事俳句だと思った。ところが、ことあるたびに思い出す。この句には人間の普遍の憧れが沁み出しているのだと、ある時、気づいた。人間にはどんな苦しいときでも、空を仰ぐという行為がある。空を仰ぐとは、空(くう)を仰ぐことであろう。子供など、行き場がないときほど、いつまでも空を仰いでいるものだ。

たとえ行き場があっても、一日が終わろうとするときに、なんとなしに空を仰ぐ。誰でも覚えがあるだろう。その行為に秘められる意味は大きいのだ。

空は、人間の如何なる喜怒哀楽にも応じられる深みを持つ。人間は空を仰ぐとき、自分を忘れるという試みをしているのである。掲句で「刻」という字を使うのは、人間の生きている時間が、永遠の空から見れば、一瞬の刻み目に過ぎぬという認識を表わしている。

掲句の空には雲が出ている。夕方なので、当然、雲は美しく燃えている。いわば、空の花である。そして、地には草の花がある。この季語が下五に置かれているのは、目線の移動を表わしている。先ず空を仰ぎ、それから地に目を落とす。空には赫赫たる雲の花、地には慎ましい草の花、されば人間は如何に、という問いが、掲句には隠されている。

無論、人間も花であり、考える花であろう。ありきたりな、名も呼ばれぬ花である「草の花」と、これ以上ない大輪の花である雲の間で、人間は如何なる花であるか。いや、作者は自身を如何なる花と観ているのか。

「季語は自分である」という作者の常日頃の主張に沿うなら、華たる雲よりも草の花であろう。なぜなら、人間は空ではなく、地に生きざるを得ないからである。それでも、華たる雲を憧れて仰ぐ。その憧れこそは、華たる雲にも比する花であろう。平成十六年作。

日の丸に糊利きゐたり秋彼岸      「手帖」

糊が利いているのだから、前の旗日に掲げた後、洗濯したのだ。国旗を大事に扱っている様子は、慎ましく勤勉な国民性を良く表わしている。「秋彼岸」としたのは祖霊を尊ぶことが念頭にあったのだろう。祖霊あっての我々である。ならば盆でも良いように思えて、だが、盆では終戦日に近すぎる。日の丸に戦争が重なってしまうのだ。

郷土を愛し、祖霊を尊ぶということ、そして国を尊ぶということ、本来なら当然滑らかにつながるべきこの二つが分断されてしまったのは、敗戦ゆえであるが、しかし戦後を支配した言論も与しているであろう。

「春の彼岸」を取らなかったのは、「糊利きゐたり」の措辞によると思う。秋の清冽な空気こそが、国旗のきりりとした触感を引き立てるのだ。平成十七年作。

こほろぎやテレビがつけば見るこども  「呼鈴」

テレビの罪とは情報の受動性にあり、テレビばかり見ている子供は物を考えなくなる、とは、高度成長期に良く聞いた論調だが、テレビ世代がもう五十を過ぎる今、それほど馬鹿になったとも思われない。むしろ個々の人間は、昔よりも良く考えるようになったと思う。テレビからインターネットへ移行する時点で、情報は一気に多様化していったが、考える者はますます考えるようになった。それは膨大な情報を取捨選択する過程で、思考の垣根というものが取り払われていったからだと思う。思考にタブーというものがなくなった。これは素晴らしいことだと思う。

さて、掲句は、平成のリビングでテレビを見ている子供に、作者が自身の子供の頃を重ねているのだと読んだ。昔と今では、何が違うのだろう。その考察が「こほろぎ」の季語に表われている。昔あって今少なくなってしまったものは、鳴く虫の数、ではない。仮に鈴虫、或いは草雲雀、又はキリギリスと比較してみるとき、こおろぎの声は、鳴く虫の中で最も平凡で、普遍的で、伸びやかであろう。
その平凡であり、普遍的であり、伸びやかである事、それが昭和の高度成長期と重なるのだ。世の中に平等が満ち、誰でも働けばそれに見合う収入が得られ、未来はますます良くなるだろうという希望に、一億人があやされていた時代、子供の見る番組は単純で、ヒーローと悪党、善と悪がはっきり区別されていた時代だ。

しかし、それは結局の処、夢なのだ。夢であったことが判る今は、良い時代かもしれぬ。渾沌として惨たらしくとも、夢に盲いているよりは遙かにマシだと思う。平成十八年作。

月光の途中に地球月見草     「呼鈴」

月は普段の人間の目線から見ると、地上を照らしているように見えるが、宇宙から見た場合、月球は太陽の光を反射している、いわば球体の鏡である。必ずしも地球だけを照らしているわけではない。

月光という、太陽の光の反射である光の途中に、偶々地球が有るだけだ、という思考は、人間中心主義からも地球中心主義からも遠く離れた、大きな思考である。

季語の「月見草」は付き過ぎのようでいて、実は含蓄がある。「月見草」と呼ばれる草の立場から言えば、別に月が見たくて咲くわけではあるまい。本当は、月が見たいのは人間である。美しい月をいつまでも見ていたい心情を、月光を思わせる色に夜通し咲く小さな花に託し、月見草と呼ぶのだ。

即ち、この季語は作者の心情である。「月光」という太陽の反射光の進む途中に偶々有るに過ぎない地球、その表皮の在るか無きかの一点に月を眺めている自分。宇宙から見て、月見草と人間である自身の違いは如何ほどであろうか。ほとんど区別できないであろう。そう考える眼は、巨視的と言っても良い客観である。平成十九年作。

ひぐらしの声いくつかは鏡文字      「呼鈴」

難解な句である。前衛句と言っても良い。小泉八雲は、蟬の鳴き声の中で蜩が最も美しい、と言ったそうだ。蜩の声はどこまでも広がってゆく観がある。朝方にも鳴くが、蜩と聞いて思い浮かべるのは「日暮」の意の通り、夕暮れであろう。あの果てしない単純なリフレインは、人を瞑想に誘う。
永遠にフラットであるような、あの調子にも僅かに変化が聴き取れる時がある。その瞬間の声を「いくつかは」と表現し、鏡文字に喩えたのだと読む。

鏡に映して初めて読み取れる鏡文字は、秘すべき記述に良く使われる。錬金術など、世界の秘密について記した本を思えば良い。蜩の声は世界の秘密、具体的には日本の山河の秘密を、秘密のまま展開してゆくのであるが、作者は声の一瞬の僅かな乱れに、その秘密が開示されかかるような思いを抱いたのであろう。

個人的には、貴船の檜の森を思う。何処までも同じ景が続く、懐かしく、清々しい香に満ちた異界だ。蜩の声に包まれて、いつまでも彷徨っていれば、ある時、世界の秘密が垣間見えるだろうか。平成二十一年作。

冷やかや群集心理広場に満つ   
  
 「鷹」平成二十五年十二月号掲載。人間は単独では思考するが、群集になると、もはや思考しない。群れていると安心する、その偽りの安心を得る事だけが至上の目的となる。社会的生物の欠点である。

「広場」と言った処が眼目で、広場とは広いように見えて実は狭い。野原ではない。曠野では勿論ない。広場とは、ある一定の人工的な面積でしかない閉鎖空間における、極めて限定的な自由を象徴する。群集の自由を限定しているのは、街の構造でもお上でもなく、実は群集それ自体である。

「冷やかや」とは、単に時候を示すだけではない。作者の醒めた眼差しでもあり、群集心理の薄氷を踏む如き危うさでもある。群集が何を求めているのか、自由か、正義か、金儲けか、安心か、いずれにせよ、それは群集が群集である限り、最大公約数的な夢幻でしかない。自然に群集心理が発生するなら多くは悲喜劇に終わる。誰かが煽っているなら、その煽る者が利益を回収しようとする。

「群集心理」は「群衆心理」とも表記されるが、掲句で「群衆」と記さなかったのは、作者の言葉の感覚が緻密であることを示す。「群衆」と記せば、「民衆」、「大衆」へと連想が及ぶ。だが、群集は民衆でも大衆でもない。例えば、下町に日々の暮らしをいとおしむ人々は、群集ではない。民衆であり大衆の一人であろうが、自ら考え自ら行動する。煽ったりはしない。煽られもしない。何が公正であり、何が人倫に則するか、マスメディアよりも遙かに精確に、肌で知っている。地に足をつけるとは、そういう思考である。




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