2014年9月26日金曜日

 【朝日俳壇鑑賞】 時壇  ~登頂回望その三十四~ 網野月を

(朝日俳壇平成26年9月22日から)

◆絶景は厠から見る大文字 (京都市)氷室茉胡

金子兜太と長谷川櫂の共選である。長谷川櫂の評には「一席。大文字と厠との落差こそが絶景。南宋の水墨画の名筆のように。」と記されている。

耳学問だが京都ではかつて何処の町屋からでも大文字焼きが眺められる環境にあったということである。やがてバブルの頃には高層ビルが建って眺めも町屋の景観も様変わりしたようだ。それでもこの「厠」からは大文字が眺められるのだ。

句型はオーソドックスなものの一つである。いわば句作りの王道であり、方程式のようなものだ。句集の中の数百句余りの中に一句だけあると存在感を発揮する。多用してよいものではないだろう。
それにしても「厠」は少々古臭い気がするが京都には適うかも知れない。

◆享受してゐる秋光や野に伏せて (ドイツ)ハルツォーク洋子

金子兜太の選である。評には「洋子氏。硬質な修辞が感傷を誘う。」と記されている。評中の「硬質な修辞」は「享受してゐる」であろう。この表現には厳粛なまでに「秋光」の讃美と自然への感謝が込められている。最近の句作りでは座五の「・・て」は余感を溜めていると解釈する向きもあるようだ。コミックの吹き出しには「・・・。」に類する表現方法があって「・・・。」に隠されている台詞(=本心?)を読者の想像に任せて余感を作り出している。が掲句のように旧仮名遣いと併用すると筆者などは多少の違和感を感じる。

◆豆腐屋と掛け声の出る村芝居 (富士市)蒲康裕

大串章の選である。評には「第二句。「たちばなや!」などではなく「とうふや!」がいかにも村芝居らしい。楽しい句。」と記されている。句意は読んですぐにそれと理解される。面白さも評の通りである。「豆腐屋」は職業だが屋号にも似て妙である。「豆腐屋」は冷かしの掛け声であるが、同時に親近感が滲み出ていて「村芝居」を叙して適確である。木挽町の歌舞伎座の三階の大向から掛かる掛け声共々に間が要であろう。



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