2013年5月3日金曜日

花鳥篇論/筑紫磐井

歳旦帖・春興帖をまとめた後、春・夏の間の季節で第3回目の俳諧帖を興行しようという趣旨で花鳥篇と名付けたのは、これも春興帖の先人蕪村にちなんだものである。

   *    *

『花鳥篇』(天明2年(1782)刊)は、「春風馬堤曲」で有名な蕪村の春興帖『夜半楽』(安永6年(1777)刊)につぐ、春・夏興帖となっている(春興帖、夏興帖についてはすでに述べた通りである)。『夜半楽』同様蕪村自ら企画して、文と絵の版下を書き、蕪村趣味が濃厚に発揮されている。特に『花鳥篇』ではその成立に俳諧の門人だけでなく、妓女、歌舞伎役者がかかわり、遊興の雰囲気を際立たせている。『夜半楽』が独立して版行されたのに対して、『花鳥篇』は蕪村七部集を構成しているため普及も著しかった。

その内容は次のとおりである。

目次

①蕪村自序
②花桜帖(妓女、歌舞伎役者、地友、門人などの花・桜発句85)
③蕪村の俳文
④大阪うめ女の前書き付き発句「いとによるものならにくし凧」を立句にした連句12句
⑤蕪村の句文と蕪村の「檜笠」の絵
⑥宗因発句「ほととぎすいかに鬼神もたしかに聞け」を立句にした歌仙
⑦中村慶子(歌舞伎役者)の「月にホトトギス」の絵

経緯は、天明2年の春興帖を作成するため蕪村は門人知友に働きかけたのだ(②)が、吉野へ花見に出かけたため出版の機会を逸し、同時に「ほととぎす」にかかわる宗因発句を立句にした歌仙を巻いた(⑥)ところから、これらを併せて体裁を作り、『花鳥篇』を刊行したというのである。花・鳥(時鳥)からなる春・夏興帖となった理由はこれで説明できる。

この間、大阪うめ女が小いと(蕪村の老いらくの恋の相手)にあてつけた発句と、当の小いと・蕪村をふくめた連衆による連句12句(それも大半が恋の句で式目違反でもある)を付している(④)。あるいはこれは「春風馬堤曲」同様蕪村の創作であるかもしれない。

また、さらに、一休(愛人のいた名僧として有名である)の小唄を引用して芭蕉の寂びを揶揄し壮麗を讃えた句文(③)、吉野の花見を言い訳する(実は老いらくの恋を言い訳する)句文を配した(⑤)。これに序文(①)、絵(⑥)を添えて風雅な1巻が成り立っている。

このように『花鳥篇』は蕪村の想像力・妄想力の作りだした新しい形式であったのである。江戸時代の俳諧は、芭蕉のような求道者ばかりだったとゆめゆめ思ってはならない。平成の花鳥篇もこうした奔放な詩を作りだしたいものである。

末筆ながら、こうした趣旨に賛同していただいた、多くの平成の風狂の士に感謝する。








2 件のコメント:

  1. この記事には深い感銘を覚えました。『花鳥篇』の世界につきまして、
    これだけの情報を得られるとは……とにかく驚きです。
    そして、感謝!

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  2. 和泉清様

    コメント投稿ありがとうございます。平成26年の花鳥篇もそろそろ始まります。引き続きご愛読いただければと存じます。今後ともよろしくお願いいたします。

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