2019年12月13日金曜日

【麻乃第2句集『るん』を読みたい】16「こころのかたち」 近澤有孝

 辻村麻乃句集「るん」を読んで、まっさきに感じたのは「なんて不思議なこころのかたちなんだろう」ということだった。季語にさまざまな思いを託して書かれるわずか十七音の詩。たんなる書きつけのように見えるかもしれないけれど、その短章の奥に凝縮されたひとりの人間の思いのあることを知るとき、読者はそのミスティーな魅力に惹きつけられないわけがない。

  雛の目の片方だけが抉れゐて
  春疾風家ごと軋む音のして
  眠るやう交はるやうに秋の蝶


 これらの句は、いずれもなんの変哲もない、ひとりの女性の日常をしたためたものにすぎないのかもしれない。けれども、雛の片方の目だけが抉れていることに心の痛みを感じ、秋の蝶の訪れに《眠れるやう交はるやう》な慰藉をみとめたとき、ばらばらのことばはたちまちのうちに並びたち一本の短詩となっているのだ。このささやかなことばとのたわむれに触れるとき、ぼくはその書かれた、いや詠まれた作品のひとつひとつに怯えのような不思議さを感じずにはいられない。
 そう言えば、ずっと以前に麻乃先生のお父さま、故・岡田隆彦氏の詩集を読んだときにも、やはり似たような不思議さを感じていたものだった。

うまく水路がみつからないときは、
いつも揺れる界隈に溺れてしまって
突堤のような店さきで
押しよせる雑踏にしばらく身をまかす。「泡だつもの 1」冒頭


 詩と俳句では作品の成り立ちが違うけれど、それでも、岡田氏のまるで山繭がいま吐いたばかりの生糸で、悪戦苦闘しながら壮大な構造物を作りあげようとしているような印象があって、それはとりもなおさず血をわけた娘である麻乃先生の句の上にも同じ不思議が継がれていているらしい。日常に腰を下ろした深い眼差しや、いかにも都会のひとらしい洗練されたことば選び、それからふいに見せてくれる茶目っ気や艶やかさは、そのまま麻乃先生の句をいろどるものとなっている。

  気を付けの姿勢で金魚釣られけり
  私小説受け入れられぬままに解夏
  冬ざれや男に影がついてゆく


 これらの句はたぐいまれな美しいかたちを備えている。へたをしたら、まさに女子校生の手すさび、あるいは《私小説》になってしまっていたかもしれないところを、とことん熾烈な匠の目で、新鮮なことばだけを提示してくれている。ここには、気まぐれなな感傷や古びた伝統のかけらもない。辻村麻乃という、たぐいまれなほどにまっすぐな《こころのかたち》がそこにあるからにほかならない。

2 件のコメント:

  1. 近澤有孝様。石川昌治を記憶に留めていますか。そうして山内良平のことをもしご存知なら教えていただけますか。もしも私が若き日に出逢った近澤有孝様でしたら。人違いでしたら謝ります。

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  2. 石川くん、お元気ですか?一緒に「絵馬」をやっていた近澤です。「絵馬」終刊後より、良平さんとは会っていません。ぼくも、広島に引っ越しをして、もう10年ほどたっていて、懐かしく思い出すことはありますが、良平さんの連絡先等はしらないのです。
    いまも、詩は書いていますか?ぼくは、俳句の方がメインになってきています。

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