2018年10月26日金曜日

【新連載・辻村麻乃特集】麻乃第2句集『るん』を読みたい 2 辻村麻乃句集『るん』を読む 堺谷真人

 『るん』の著者、辻村麻乃さん。彼女の周りにはいつも人垣が絶えない。家族、ビジネス関係者、俳句の師や同志、音楽の仲間。人々を引き寄せる独特のオーラを発散している。社交的なのだ。

 しかし、ある時、彼女のfacebookの投稿を閲覧していてふと気づいたことがある。彼女の関心は圧倒的に「今日只今」の人間関係に集中しており、例えば同窓会などの懐古的人脈への言及が殆ど見られないのだ。

 普通、40代後半くらいから人は懐古的となる。若かりし日の無謀や失敗を語りあうのが楽しく、思い出話を反復するため同窓会にしげしげと顔を出す。それ自体決して悪いことではない。が、畢竟、同窓会とは子育てや出世競争の喧噪から解放された人々のつかのま癒しの場、アジールであるに過ぎない。それが前景化するとき、処世態度の減速感は否めない。

足遅き群衆にゐて春夕焼
我々が我になる時冬花火
爽やかや腹立つ人が隣の座
人とゐて人と進みて初詣


 筆者がまず注目したのはこれらの句群である。そこにはいつも誰かと一緒にいる麻乃さんの姿がある。しかし、人垣の中の麻乃さんはいつも幸福なわけではない。時には集団の同調圧力に疲れ、社交生活の虚栄に倦むこともある。自己を守ってくれつつも閉じ込めようとする繭のような人間関係への苛立ち。孤高の精神が疼くのである。

引鶴の白吸はれゆく空の孔
次こそのこその不実さ蚕卵紙
象の鼻一つは夏の星を指し
嫉妬てふ限りなきものサングラス
口開けし金魚の中の赤き闇
鬼一人泣きに来てゐる曼珠沙華


 社交性の中に卓然として屹立する孤高の精神。その淵源はやはり少女時代にまで遡るであろう。詩人、俳人を両親に持ち、芸術的天分に恵まれた多感な少女は、自己と周囲との差異に敏感であり、傷つきやすかったと思われる。引鶴の白に象徴される痛々しいまでの孤独を愛し、うわべだけの巧言を憎み、天上の星のごとき超越性を志向する聖少女・麻乃がいる。その一方で、ネガティブな通俗的情緒をもてあまし、自我の内面に巣食う闇におののき、人ならぬあやかしの身と化して慟哭する黒少女・麻乃がいる。
 そんな少女は芸術や文学に救いを求めた。渇きを癒そうとして詩歌の森に分け入った。が、却って詩歌の毒にあてられて更なる渇きに苦しむ結果となった。恐らくはそのような若き日の彷徨と葛藤の痕跡が麻乃俳句に独特の魅力と陰翳とを与えるに至ったのである。

言ひ返す夫の居なくて万愚節
階上の夫の寝息や髪洗ふ
娘てふ添ひ難きもの鳥渡る
夫の持つ脈の期限や帰り花


 翻って、家族を詠んだ麻乃俳句は「日常生活のかるみ」とでも呼びたくなるほど良い味を出している。夫婦、親子の間の距離感は絶妙で、不可侵の領域の存在を互いにきちんと認め合っている。冷めているわけではない。個を尊重し、共依存の陥穽にはまらぬよう濃やかに意を用いているのである。
 穿った見方をするなら、詩歌の世界こそ麻乃さんのリアルな喜怒哀楽が炸裂する人生の修羅場、真剣勝負の主戦場なのだ。それに比べれば家族や家庭は遙かに平和で安全な場所に違いない。大抵の問題には冷静に対処できるからである。安息の中から自ずと滲み出る鷹揚さ。それが彼女の家族俳句にあたかも上質の麻のような肌触りをもたらす。

總持寺 六句
住職の夢のお告げや冬安居
きゆつきゆつと百間廊下の冬日向
寒牡丹百五十人の座禅かな
雲板のばあいんと鳴りて大根汁
振鈴で明くる朝や冬館
入れ込みの僧堂行鉢日の短か


 昨年の初冬、麻乃さんらと横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺で吟行をした。そのときの作である。
 吟行には俳人の個性が如実に表れる。麻乃さんは入念な下調べを欠かさないが、自らの世界観ありきで句材を取捨選択する人ではない。新たな事物、情況に対して常にオープンかつニュートラルなたたずまいで接する。履物と百間廊下のこすれ合う「きゆつきゆつ」のむずむず感。青銅製打鳴具である雲板の「ばあいん」という間延びした響き。これら的確無比なオノマトペは、第一義的には彼女の鋭敏な聴覚がとらえたものである。と同時に全方位的に開かれた五感の持ち主でなければ享受することが許されない種類のものでもあろう。

 ところで、麻乃さんはAdeleの「Skyfall」が好きでよく歌う。シリーズ23作目、2012年公開の『007スカイフォール』の主題歌である。Skyfallとはラテン語の”Fiat justitia ruat caelum”(たとへ天が落つるとも正義は行はれよ)に由来する語。この格言は古来多くの政治家や法学者が引用する有名なものらしいが、9.11後を生きる我々にとっては寧ろ原理主義やテロリズムを連想させる危険な香りがする。

 麻乃さんの鳥肌の立つような絶唱にこの格言を重ね合わせるとき、筆者はあらぬ妄想をして不安になる。彼女がいつしか偏狭な俳句原理主義者になり、俳句の中の非俳句的なものに対して苛烈な聖戦を宣するのではないかと。そしてまたすぐに己が妄想を打ち消すのだ。次のような句を詠む人が俳句原理主義者になることなど決してあるはずはない、と。

鳩吹きて柞の森にるんの吹く
おお麻乃と言ふ父探す冬の駅


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