2018年4月6日金曜日

【新連載】前衛から見た子規の覚書  筑紫磐井(9-2)俳句は三流文学である――続編

〈「俳誌要覧2018年版」〉 特別展望・漢詩が詠みたい!「俳人正岡子規は漢詩から始まった」は、〈「前衛から見た子規の覚書」(9)俳句は三流文学である〉で省略してしまった、子規の短歌に対する批判が、「俳誌要覧2018年版」が出たので解禁となった。   
 現在連載中の「子規別伝」に割り込む形になるが、首尾一貫していないのは気持ちが悪いのでここで書かせていただくこととする。
 要は、見識のない(つまり思想・意匠のない)歌人は詩人(漢詩人)に席を明け渡すべきだと言うのである。
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(前略)
文学に臨む態度
 このように幼少より子規は漢詩・漢文・論説などにたけていたが、和歌、俳句はよほど年を加えてから関心を持ち始めている。和歌、俳句に関心を持ち、それらを記録し始める頃には、当時の文学と考えられる大半のジャンルにある見識を持って臨むようになっていた。単なる和歌、俳句に関心を持っていたのではなく、文学の中における和歌、文学の中における俳句という位置づけで歌論も、俳句論も展開されていた。この点を見逃すと、子規の位置づけがやけに矮小なものとなってしまいかねない。
 こうした理由から子規の俳句や短歌についての考え方について詳細に見るべきなのである、実はそうした個別のジャンルに入る前に子規が「詩歌の起原」(明治二二年四月「真砂集(常磐会寄宿生文集)」)や「我邦に短編韻文の起りし所以を論ず」(明治二五年一〇月「早稲田文学」)などの文学総論を論じていたことを忘れてはならない。
 すでに、文学ジャンルについては明治二一~二二年の「七草集」において七つのジャンルを縦横に操ったことを知っているわれわれは、子規が文学のカテゴリーの中で、①漢詩②和歌③俳句④漢文⑤擬古文⑥雑文(論説)を批判的に選択し、ついに俳句、和歌、擬古文の改良運動を成し遂げたことを知っているが、その根拠は必ずしも明らかではない。たまたま手近にあったと言うだけのように受け取られるかも知れないが、じつは確信的な戦略であったのだ。逆の例をあげれば、あれほど幼い頃から勉強していた漢詩・漢文について何ら批判的運動をしていないのは不思議に思われる。漢詩・漢文が古くさく文学に価しないかと言えばそうではなく、この時代俳句よりかは遙かに高尚な文学と考えられていたのである。
 俳句という個別のジャンルについて考える前に、文学のあらゆるジャンルについて子規の文学総論を眺めておくことは決して無駄ではあるまい。
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 「文界八つあたり」(明治二六年四~五月「日本」)より一例として和歌の評を眺めてみる。漢詩との関係がはっきり言及されているが、それにしてもすさまじい酷評ぶりである。和歌にしてからがこうであるから、まして八公・熊公の俳諧(俳句)などは論外なのである(俳句が文学の一種と子規に自覚されたのは、「俳諧大要」(明治二八年)以降である)。

 「試みに今日の歌人にはいかなる人がなると尋ぬるに先づ〈国学者/神官/公卿/貴女/女学生/少し文字ある才子/高位高官を得たる新紳士/わが歌を書籍雑誌の中に印刷して見たき少年〉のごとき者なりけるぞうたてしや。」
 「新聞雑誌の文学にても余は漢詩をもって比較的に発達したるものと思惟するなり。本邦在来の耳なれ口なれたる和歌が下落して外国語の珍奮漢的の漢詩が騰貴するとはやや受け取れぬ話なれどもこれには二原因ありて存する如し。第一はすなわち前に述べたる歌人の見識なきによるものにして歌人に比すれば詩家の見識なお数等上にあるを証すべきなり。第二は漢詩の言語多く句法変化するにも似ずわが和歌は言語の区域狭きと字数少なきと古歌多きとによるものにしてこれがために新句法を用ひ新意匠を述ぶることを得ぬは是非もなき次第なり。この上は多少の新語を挿むか短歌のみに頼らずして長歌を用ふるかの外は別に方便もあるまじと思はる。」
 「今日和歌といふものの価値を回復せんとならばいわゆる歌人(すなわち愚痴なる国学者と野心ある名利家)の手を離してこれを真成詩人の手に渡すの一策あるのみ。」

(後略)

※詳細は、「俳誌要覧2018年版」をご覧下さい。

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