2014年12月12日金曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する 104. 少年老い諸手ざはりに夜の父 / 北川美美


104. 少年老い諸手ざはりに夜の父


『御伽草子(おとぎぞうし)』の「一寸法師」に、ふしぎな記述がある。鬼に呑み込まれた一寸法師が鬼の体内であばれると、たまりかねた鬼が「ただ逃げよ」というまま、

 打出の小槌、杖、笞(しもつ)、何にいたるまで打ち捨てて、極楽浄土のいぬゐの、いかにも暗き所へ、やうやう逃げにけり

「極楽浄土いぬゐ」とは八卦の乾(いぬい)のことで、戌亥とも表記する。

興味本位で八卦をみてみると、この「乾(いぬい)」が、「夜」と「父」を合わせ持つ。乾は、天・健・馬・首・父・君などを象徴する。方角としては北西の方角になり、戌(いぬ)と亥(い)の間であることから乾は「いぬい」と読まれる。納甲では甲、五行の木、五方の東、または壬、五行の水、五方の北に当てられる。陰陽道では「陽」が極まったところということになる。 

乾(いぬい)は、戌と亥の間の方角であり、悪霊とともに善神も来る両義的な方位である。真神の意であるオオカミがその間に立っているようにもに思える(狼の別名として十二支に戌が充てられているともいわれている。)

そんなことから、<夜の父>を解いてみたが、なんど見ても<夜の父>は意味深である。ボーイズラブ(BL)か、愛憎か、「ゲルマニウムの夜」(@花村萬月)かそれとも鬼太郎の父「目玉親父」かと思いを巡らす。そして無季といえども夏から秋にかけての印象がある。

「夜の父」を詠む句は、『真神』と同時期制作の『鷓鴣』が二句、そして後の『長濤』に一句収録されている。

礒岩に隠れて紛ふ夜の父 『鷓鴣』
歸るさの惡路親しや夜の父 『鷓鴣』
エノケンを観る休日の夜の父と 『長濤』

『鷓鴣』の二句をみても<夜の父>は敏雄の造語と思える。そして『長濤』ではその父と休日に外出をする。<夜の父>という言葉から生まれるものは何だろうか。


高柳重信の父をみてみる。

沖に
父あり
日に一度
沖に日は落ち  『遠耳父母』高柳重信

夏石番矢氏は、重信の父を弥生的《うぶすな》とした。

西方の海のかなたには、異界とも原郷ともつかない場所があり、「父」が雄大ではるかなる存在として鎮座する。「日に一度/沖に日は落ち」と、そののち「父」と彼岸の私たちとの回路は断たれる。(中略)西方の「沖」の「父」は、私たちの血脈を遡った先の「父」であり、空間的には非常に近いぐらい遠方に想定されている。(中略)こちらの《うぶすな》は父権的弥生的《うぶすな》だということになる。(中略)弥生的《うぶすな》の認知には、観念が必要とされる。
(高柳重信論2『天才のポエジー』 夏石番矢 1993邑書林)

【弥生的《うぶすな》】…それは、階級社会のはじまりを示すと解する。近代以降の父の姿は、階級社会に対峙し苦悩する父として、「木曽路はすべて山の中である」の冒頭が物語る島崎藤村の『夜明け前』により記録的に描かれた。

季語に「夜の秋」がある。<秋を感じさせる涼しさのある、土用半ばを過ぎた夏の夜をいう語である。(日本語大辞典)

涼しさの肌に手を置き夜の秋 高浜虚子

季語「夜の秋」になぞらえ「夜の父」を解くならば、<夜だからこそ父><闇だからこそ父>を感じるという読みである。「父」は個人の父であり、家長の意味もある。また権威ある人という意味の「父」でもある。

闇の中にいる父、それは社会という制度の中を累々と経て来た父の父またその先の父たちをも示すといえる。父の存在、そして自己が父であるという意識を<夜>としているとみる。

人は家族の中で生まれるが、家族から離脱していく。家族の磁力から離脱するには、まるで宇宙船が重力圏を脱出する時のような、巨大な遠心力が要る。その無茶なエネルギーで、わたしは自分も他人も傷つけた。実際に金属バットを振りまわさなくても、心理的に親殺しをしなければ、家族の重力圏から脱げ出すことはむずかしい。そしてわたしは、家族から、コミュニティから、自分を縛るものから脱出することに成功した。出ていくことはできたが、気がついたら、戻る道がない。往還の往は手に入れたが、還のしかたがわからない。  
(上野千鶴子「ミッドナイトコール」 『生きながら俳句に葬られ』江里昭彦 内の引用) 


<夜の父>との関係性を敏雄は断ち切れずにいる。老いて諸手ざはりに<夜の父>を傍に置き、磯岩の影にも<夜の父>を見る、悪事にも親しく<夜の父>と付き合う。そして晩年には<夜の父>とエノケンを休日に観る。<夜の父>を切り離せない敏雄がいる。

故郷離脱を果たし、ムラに誰もいなくなったとしても闇の中にいる累々とした自己のルーツ<夜の父>はそれぞれの個人の中に存在する。それは、過ぎ去った時代のことなのかもしれず、父という父が今では記憶をつかさどる海馬を失い、町を徘徊する時代になった。現代の<夜の父>は乾(いぬい)の闇の中で、弥生的《うぶすな》から解き放たれ、縄文的《うぶすな》を求め徘徊するのである。

我々は<夜の父>を傍に置く、そしてその接し方、探し方がわからない。

鬼太郎の父(目玉親父)は常に傍で鬼太郎を励ました。敏雄の<夜の父>も同じく、傍に寄り添い敏雄である作者からその父に近づこうとしている。鬼太郎の作者・水木しげる、そして敏雄…前線から生きて帰ったからこそ見える闇の世界をみてきたもうひとつの眼がある。その眼はいつも生きているもうひとりの自分を見守っている。生きているあいだじゅう、そのもうひとつの存在に見守られたいのである。




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