◆赤紙が来たと叫んで昼寝覚 (東京都)東賢三郎
長谷川櫂の選である。各句評の前に「九条の解釈改憲に対する句が山ほど。」とあり、次いで掲句の選評には「一席。やがて赤紙(召集令状)も夢ならず。五句目も。」とある。今現在でなければ、約七十年以前の過去に魘される作者の昼寝覚の景であろうが、閣議での解釈改憲以降は、昼寝は太平を貪ったその約七十年のことを指し示すようになった。前半の口語表現が現実味ある切迫感を演出している。
ちなみに五句目は「解釈の余地など在らず雲の峰」である。
◆夕立の初めはほこり臭きかな (相馬市)根岸浩一
稲畑汀子選である。選評に「一句目。一天、俄にかき曇り、ざあっと来た夕立。乾いた土からたつ匂いは、まさに夕立ならではのもの。」とある。夕立の終いは、虹に収まるのであろうから「初めはほこり臭き」で良いのかもしれない。必ずしも虹になるとは約束されていないのだが。
「・・は・・・かな」の句型は、俳句表現の常套手段中の王道である。この型に入れてしまえばすべてが俳句になるというものだ。人形焼の焼型のようでもある。懐かしく時折は食したくなるものだが、毎日では閉口する。
◆風薫る九条に抜け穴はなし (別府市)川野靖朗
金子兜太選である。選評には「河野氏。抜け穴を探す者たちの浅ましさよ。」長谷川櫂選の先掲句同様に解釈改憲を批判する句である。東日本大震災以来、俳句作家たちは社会を直視した作句へ強い関心を示すようになった。社会の為にか、俳句の為にか、何れにせよ肯んずることではある。
掲句は、抜け穴を通った風は薫ることがない、とでも言っているようだ。薫風のポジティヴな価値観に相反して、抜け穴の卑怯未練が描写され、最後に「なし」の終止形で潔く処断されているところは爽快である。人間の心の中の情景を詠んでいるのだ。
【執筆者紹介】
- 網野月を(あみの・つきを)
1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。
成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。
2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。
現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。
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