台風8号 お見舞い申し上げます。 現在、11日未明ですが関東地方では台風上陸前の静けさです。
花鳥篇そろそろ終盤です。
また下記 筑紫氏に記されている「鷹」50周年祝賀会の様子がふらんす堂山岡女史のブログに。
(「鷹」50周年のお祝いの会。)
同ブログに 筑紫家に新入りの猫ちゃんを発見!千代ちゃんというそうです。
(薬缶から、千代ちゃん、ガッチャンまで。 ) ←猫好き必見!!
対抗して泥棒猫の画像を。
筑紫磐井
○先週の「玉藻」1000号記念祝賀会の後、今週は「鷹」50周年の祝賀会に参加した。長く続いたからいいというものではないが、先日の「玉藻」では立子―椿―高士の三代ばかりでなく、立子の病気で倒れた後雑詠選で支えた高木晴子を忘れるなという来賓の挨拶があったり、「鷹」では圧倒的に多くの来賓が飯島晴子に触れていた。50年、100年と順当に続いていったということよりは、こうした起伏があったことを思い出させる話が貴重である。
○そういえば、能村登四郎が雑誌を創刊したのは60歳という相当高齢になってからだったために、それまでに育てた弟子たちを多く馬酔木以外の雑誌に推薦していたと聞いたことがある。中嶋秀子を森澄雄を介して「寒雷」に、飯島晴子を「鷹」に、櫛原希伊子を「浜」にという具合に。直接登四郎に聞いたわけではなく、周囲の同人に聞いた話だからあまりあてにならないが、いかにもありそうなことと思われた。
登四郎は教師だったから、いろいろな学校のつながりでPTA句会の指導をし、中には優秀な女流俳人もいたことはあったであろう。しかし自分で雑誌を持っていなかったから彼女たちに結社を紹介するとすれば、今あげた個性的な女流作家たちがとても「馬酔木」の作風に収まるとは思われず、最もふさわしい結社や自分の同世代を介してそうした場を勧めていたのだろう。その意味ではおおらかな時代であった。
今では結社が囲い込みのようなことをして離脱した者を非難中傷したりしているが、本当は、その作家のために最善となる道を示してやるのが指導者の道ではないだろうか。
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