歳時記(角川書店編・第3版)に「北窓塞ぐ」という季語がある。
北からの寒風を防ぐために、戸を下ろし板を打ち付けたりして北向きの窓を塞ぐそれに対してであろう。「北窓開く」という季語の解説。
冬の間閉ざしていた北窓を開くこと。薄暗く陰気だった部屋がにわかに明るくなり、身も心も開放されたように感じる。春の喜びの一つである。苑子は、季語を意識して作句する俳人ではなかったが、春の季語を用いた句は、他の季節に比べて圧倒的に多い。思えば、春(3月)に生まれて、春(1月)にその生を閉じている。
中七下五の「北窓が開き相逢ふ椅子」とは、北窓が開かなければ、その季節にならなければ、その椅子に座る二人は相逢うことができないということだろう。
藪の中にひっそりと暮らす女人の家へ、春になり来訪する男。彼は、旅人でもあるのか・・・。永い永い冬を越えて、ようやく再び逢えることのできた喜び。
しかしながら、藪の中に棲んでいるとは、どんな女人であろうか。
豊口陽子氏の句集に『藪姫』という句集がある。その中の「藪姫抄」の句を拾ってみる。
どの屋も棲処ではない渡河の藪姫 豊口陽子
藪姫に小さき巣かかる水の上
藪姫として衣函に棲む黒きもの
藪姫に藪の階調薄日を吹く
かの藪姫見知らぬ鳥の積む磧これらの、ある緊迫感を伴う叙情性を感知する句々に比べて、苑子の掲句は明るく開放されているのだが、「藪」という尋常では無い棲処を選択せざるを得なかった女人の生き様とは、如何なるものであったろうか。
心ならずも己が藪に迷いつつ、更なる不可知の彼岸へ旅立った、あまたの女たちに捧ぐこれは、「藪姫抄」の前書きである。「藪」・・・その情念の奥底からの移行へ、「更なる不可知の彼岸」へ、苑子の句の「藪」に棲む女も辿り着くのではないかと、私には思えてならない。
そんな女人に北窓が開く、その束の間の時間は、春の喜びを感受しながらも、春独特の憂いや倦怠を持つ希薄な重圧をも重ねながら、ある物語性を呼び込み、展開を誘う。
それは、
「藪の中に一軒の家があります。春が来て、その家の北窓が開きました。すると、藪の中に二つの椅子が並べられました。」
という物語仕立ての表記によるものである。
「鬱葱とした藪の隙間から緩い春の日差しが降りかかります。先ほどの古い二つの椅子には誰も座っていません。でも、ふと耳を澄ますと、草木の葉擦れの音の間に静かに笑い合う声が聴こえてきます。」
そんな続きを生前の苑子に話していたら、きっと目を輝かせて喜んでくれたはずである。
20 死花咲くや蹴りて愛せし切株に
立派に死んで死後に誉れを残したり、死の間際に晴れがましいことがあることを「死に花が咲く」という。掲句を初見では、「帰り花、戻り花」のように、樹木としての生命を絶たれた切株に、咲くはずのない花が咲いたと解釈していたが、広辞苑の「死に花が咲く」と取れば句意は変わってくる。
この切株は他の切株とは全く違う。『星の王子様』(サン・テグジュペリ)の、例のあの薔薇のように愛しい愛しい切株である。その切株に座っては、読書をしたり、物思いに耽ったり、笑ったり泣いたりした。遊びふざけては蹴り、八つ当たりしては蹴り、時には、切株と成り果てた姿に嘆き悲しみ蹴ることもあったであろう。
その堅い切株は、いつも優しく強く受け留めてくれる。かつては、青々とした葉をそよがせ、美しい花を咲かせ、鳥や虫たちを遊ばせ、蜜を実を与えた。その木と共に、四季を過ごし歳月を重ねたのである。その大切な切株に誉れを残したことを告げているのかも知れない。
「死」「蹴」「切」の強い語彙に、「花咲くや」「愛せし」が混じり合いながら、愛の一句に仕立て上げられている。
高屋窓秋は、句集の序文で次のように述べている。
(前略)通読していて心のやすまるひまもないような気がして、すこしぐらい息抜きになる作品が含まれていてもよいではないかと、正直いって、ぼくはそう思った。が、1頁に前句と並べられたこの愛の2句は、『水妖詞館』の中では、「息抜きになる作品」とは呼べないが、これまで緊張しながら書き続けてきた私に、口元を緩ませながら書くことができた句である。これもまた第1章の「遠景」の景色のひとつなのであろう。
21 落丁の彼方よ石の下の唄よ
どのくらいの割合で落丁になってしまうのかは見当もつかないが、詩歌の書き手にとって、「落丁」は、魅惑的な一語ではないだろうか。想像もせずに突然に、しかも静かに失う空虚感は、その虚空へ詩人を招き入れるようである。
苑子が高柳重信と自宅を発行所にして『俳句評論』を立ち上げたのは昭和33年(45歳)、『水妖詞館』を出版したのは昭和50年(62歳)である。17年間、俳句誌を出版してきた途上での「落丁」という語は、公私共に身に擦り込まれたものであろう。
抜け落ちた頁は、彼方へと消えた。そして、それは、石の下の唄と同じようにもう届かない処へ行ってしまったのだと、寂寞たる思いを「よ」のリフレインに寄り叫び詠う。
しかし、「落丁」の頁も、「石の下の唄」も永遠に失くなってしまった訳ではない。落丁の頁は彼方の何処かに存在するからこそ「落丁の彼方」を詠っているのである。そして、その「彼方」のような「石の下の唄」も石の下で確実に息衝いているのである。
彼方に行ってしまったものにまた逢うことができるのは、何時であろうか。彼の世かも知れない。此の世で失ったものと彼の世で再び逢うことは、此の世で書き尽くせなかった詩を彼の世で書くことのようである。苑子は、この青空の奥の天上で、下界では重すぎた「石の下の唄」を聴きながら、口ずさみながら、「落丁」という時間をゆっくりと拾っては懐かしみ、書くことに堪能していることだろう。そして、時々は、「石の下の唄」を下界へ詠い零しているのかも知れない。
空を仰げば、私にも「石の下の唄」の片鱗が触れるかも知れない。そして、私にも未だ此の世で詠い戻す詩があるのかと思う。苑子の棲む彼の世は遠い。
遠しとは常世か黄泉か冬霞 苑子『吟遊』
22 死して睡らず今は母郷に樹と立つ骨
死は永遠の睡りと喩えられるが、掲句は、死後の安らかなる睡りに至らずに、血肉は消失したが、骨となったその身は、母郷に樹となりて立っているという。「樹と立つ骨」の「と」は、「樹と共に立つ」とも考えられるのだが、樹と骨の形状が相似していることだけではなく、樹と骨が一体化したように感じられてならない。
母郷に立つその樹は、瑞々しい時代はとうに経てささくれ立つ枯木となって、洞をも湛えているかも知れない。そして、そこは母郷なのだから、幼少の頃より慣れ親しんだ樹なのであろう。母なる大地、母なる海などという大仰な原風景ではなく、人は皆、自身の母郷を持ち、同郷の者同士でも琴線に震撼する時間や動植物や山川、空の景色はそれぞれ異なるだろう。
この骨は、誰の骨であるのか。高柳重信と後半生を共にする前に戦死した新聞記者の夫は佐渡島の出身である。私は佐渡島へ旅した折り、佐渡島へ戻り着いたその夫の霊魂と、佐渡の歴史が生んだ文化を好んだ苑子の此の句を思い出していた。
此の句に相当する死は、多々あるのだろうが、苑子が死後の自身を語っているのだとしたら、彼女が生まれ育った富士の裾野の伊豆の樹には、深い思い入れがあるのだろう。そういえば、、少女時代の苑子は木登りが好きであった。
苑子は、死を扱った句が多く、この『水妖詞館』は最もその臭いを放つが、死後の彼の世を描くというよりも、自身が死んだ後の此の世を詠んだ句も多い。
死後の春先づ長箸がゆき交ひて 苑子『水妖詞館』
帰らざればわが空席に散る桜 『吟遊』「帰らざれば・・・」は、花の季節になると感慨深い句である。句会場、成城風月堂3Fの硝子越しの空席に、花を背に透けた苑子が座っているような気がするものである。
しかし、「死して睡らず今は母郷に樹と立つ骨」は、この2句のように、虚空より残された者達を柔らかい眼差しで見詰めている光景とは、明らかに違う。漂う魂魄ともならずに、骨として母郷の樹と土と化しているのである。睡ることなく眼を見開き、愛する母郷を見守り続けようと、母郷のかたちのひとつになろうという思いと共に、やっと母郷に落ち着いたという安堵感をも持つ。思えば、70年近くも故郷を離れて暮らした苑子である。初学時代の私の拙句
富士を背に春の校庭暮れなずむ 毬子
を大層喜び、暫く故郷の富士山の話をしてから、また遥かを見ていた。今は、朝な夕なに冨士を見上げているのだろう。
「遠景」と名付けた章の締めに置いた此の句は、望郷の果ての自らを晒しながら愛惜する苑子の絶唱である。
【執筆者紹介】
- 吉村毬子(よしむら・まりこ)
1962年生まれ。神奈川県出身。
1990年、中村苑子に師事。(2001年没まで)
1999年、「未定」同人
2004年、「LOTUS」創刊同人
2009年、「未定」辞退
現代俳句協会会員
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