2024年7月26日金曜日

兜太・汀子・狩行について  筑紫磐井

 鷹羽狩行の急逝によっていくつかの雑誌では鷹羽狩行特集が行われるようだ。私自身、鷹羽狩行の死去に対していく編かの追悼論を書いている。しかしこれはあくまで鷹羽狩行という一人の作家に対する回顧である。

 鷹羽狩行が時代を画した作家だとすれば、時代の中で鷹羽狩行がどのような立ち位置にあったかを論じなければならないだろう。特に他の作家たちとの関係において狩行の位置づけが行われてしかるべきだ。残念ながら同時代論としてこうした比較評論は今まであまりされなかった。これはむしろこれからの課題となるであろう。

 ただこうした中で、斜視的な視点からであるが、20年前に「俳句界」2004年12月号が不思議な特集をおこなっている。特集「愛を込めて贈る、俳句界人物論 俳壇のドン 兜太・汀子・狩行――その言行と作品についての考察」である。ここでは兜太・汀子・狩行を21世紀初頭の俳壇のドンと位置付けている。当時兜太は現代俳句協会名誉会長、汀子は日本伝統俳句協会会長、狩行は俳人協会会長(汀子・狩行もその後名誉会長になっている)であるからその後も長く3協会のトップに君臨していたわけである。こうした見方は、あまり文学的ではないが、世俗的にはわかりやすい指標である。そして兜太・汀子・狩行という並べ方は、様々な議論があると思うが、狩行の立ち位置を示すうえで一つの見方であることは否定できない。

 私自身、前衛俳句・伝統心象俳句の終焉後は表現史で画される時代ではなく、俳壇史(協会とジャーナリズムの歴史)でしか表せない時代だと考えているから、この特集には共感するところもある。何より、この5月に狩行が亡くなったことにより、「俳句界」が設定した3人の俳壇のドンの時代が終了したことになる。この特集の視点に帰って、現在の俳壇を考えてみることは、現在あまり考える手掛かりのない俳壇を考えるいい材料になると思う。3人のドンは何をしたのか、3人のドンの俳壇的後継者(結社後継者ではない)は誰なのかを考えてみなければいけないと思う。

 先ず手掛かりに、「俳句界」の特集を眺めて見る。

➀金子兜太については、「兜は野人の戴冠」と題して江里昭彦が執筆している。高柳重信と金子兜太を比較し特にどちらかを貶めることなくその特質を論じる。特に兜太の肉体性に注目した論述は優れている。「兜太以前の俳句が(おずおずとではあれ)言及していたのが、もっぱら〈ヌード〉のエロティシズムであったのに、彼がとりあげたのは〈ネイキッド〉のエロティシズムである」は卓論である。江里は言う、「〈ヌード〉は、たんに裸を意味するのではない。そこには審美的ニュアンスが芳香のごとく漂っている。つまり、その裸体は、均整がとれているとか、色白だとか、豊満であるといった、美的見地からするプラス価値が付与されている。現実にはそのように〈美しい〉裸体は滅多にないから、〈ヌード〉が担うのは理想化された肉体美ということになる。ルネサンス以降の西洋絵画が好んで登場させたのは〈ヌード〉であり、〈ヌード〉以外ではない。・・・ これに対し、〈ネイキッド〉は、審美的ニュアンスをまったく削ぎ落とした「ただの裸」である。・・・〈ネイキッド〉を直視したのが金子兜太だったのである。官能にひたる審美意識から、果敢なリアリズムへの転換-。身体表現によるエロティシズムの領域での兜太の貢献は、なにかを付加したという次元の問題ではない、彼はまったく「新しい精神」として登場したのである。こういう画期的事件は、俳句史にそうそうあるものではない。」。兜太も大いに喜んだことと思う。

➁稲畑汀子については「伝統俳句の母――稲畑汀子の功罪」を筑紫磐井が書いた。言行と作品とあるにもかかわらず、もっぱら言行を中心に論じ、日本伝統俳句協会の創設の偉業を顕彰し、「汀子は伝統俳句の母となって俳句史的には虚子を超えたのである」と結論付けた。この結論は汀子も喜び、この一節はホトトギスの総会で披露されたと聞いている。ちなみに最近出た拙著『戦後俳句史nouveau1945-2023 三協会統合論』はこのロジックにそのままつながっている。

最後に、③鷹羽狩行についての「牝鶏晨す」はA氏の執筆であるが、上の二氏に対する評論と異なりかなり辛辣な批判で終始しており、「どんなに立派な組織であっても、どんなに徳のある人物であっても、それが営利団体であれ非営利団体であれ、組織の要職に同じ人間が長く就いていると、必ず空気が澱んできて、腐敗を招くものだ。このことは、数々の歴史が証明していることで、創設に際して高い理念と理想を掲げた俳人協会とて、例外ではない。俳人協会は今速やかに、長年にわたり協会に尽力してきた鷹羽狩行氏に会長職を辞していただくべきである。狩行氏は、一旦野に下り、我々の目線でものを見、考え、捲土重来を期すべきである。」と述べている。本論で、文学の森社・A氏と鷹羽狩行との間で深刻な争いがあったと聞いている。


 さて、この評論がどれほど俳壇史論に貢献して来たかはよくわからない。多くの人が忘れているようだからそれほど反響があったとも思われない。しかし、「兜太・汀子・狩行」という括りは平成俳壇、ないし21世紀俳壇をある程度示す概念であることは以上の記述からも納得できる。今後この「兜太・汀子・狩行」論、あるいは対立的な「兜太(前衛)・狩行(伝統)」論、「兜太(前衛)・汀子(花鳥諷詠)」論、そして意外に注目されてこなかった「汀子(虚子の系譜)・狩行(誓子の系譜)」論が現代俳句論の課題になってゆくかもしれない。

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 ここからが本題。実は20年前の「俳句界」2004年12月号には、秋山巳之流(文学の森編集顧問)が「俳句界への提言 この1年、文学の森の実り」を執筆している。「俳句界」が文学の森から刊行されるようになって1年の自祝の巻頭言である。こんなことを述べている。

 「(前略)今年残念だったことがある。今井聖が「街」という俳誌で〈総合誌研究〉なるバカな企画をしたことだ。それに乗せられた筑紫磐井(つくしばんせい)、片山由美子、復本一郎らの発言のヒドさには呆れた。彼らは俳句実作者などと言いながら、じつはまったく俳句が何なのか、わかっていなかったのではないだろうか。そんな告白をさせた今井聖は一番の性悪である。今井聖は、総合誌が何なのか、あと二、三年勉強しなおす必要があるだろう。氏には状況論でなく、一度は本質論に向き合ってもらいたい。「総合誌幻想を捨てよ!」などと叫ぶ復本に到っては、学者の風上にも置けない低俗な駄文を弄し、まじめな人たちの間で著しく評判を落としていることをご存知であろうか。

 各総合誌編集長の選句眼と企画力の低下につけ込むことで、俳人は自らを売りこむ時代になったのか。これはすなわち、俳句作者がその力量のみで勝負ができない時代となったことを意味する。だが、総合誌の編集長たちが、本気で俳人と俳句を選べば、ここに挙げた四名の俳人たちは、じつは箸にも棒にも掛からない連中だと、依頼状を破り捨てるはずだ。それに目をつぶって仕事をしなければならない編集長たちに、ほんとうは感謝すべきであろう。自らの生き方を、一度は考えて見られよ。」

 こうした巻頭言を添えて、私(筑紫磐井)に「愛を込めて贈る、俳句界人物論 俳壇のドン 兜太・汀子・狩行――その言行と作品についての考察」の汀子論の依頼が来て掲載となったわけである。

 秋山から嫌われていたか愛されていたかよくわからない。秋山の句集『うたげ』には、

唐辛子筑紫磐井ぴりぴりと

が載っている。私のすぐ後には終生の天敵である齋藤愼爾、また秋山が俳壇デビューに尽力した黛まどかが並んでいる。

たまにあふ齋藤愼爾の新走り

がちやがちややヘップバーンを遠巻きす

 愛憎渾沌とした人物であった。