2017年5月5日金曜日
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む2】「喚起する俳人」/中西 亮太
麒麟さん。僕が東京に来て二年間、俳句関係で一番親しくしてくださった人だ。この度、麒麟さんの北斗賞受賞作「思ひ出帳」を拝読する機会をいただいた。「おもいっきり、好きに書いてくれたら嬉しい」と言ってくださった麒麟さんの胸をお借りして、ラーナーlearnerの視点から作品を鑑賞したい。
結論から言うと、「喚起すること」の意味を考えさせられた。「思ひ出帳」は麒麟さんの体験・感性に根ざしている(ように見える)し、時としてそれを直接的に表明する句もある。句が提供する景色や物語は、(フランスポストモダン風に言えば解釈は他者の手に渡ってしまうのかもしれないが、)固有の作家が他者に喚起するものなのである。
夕方の空まだ青し夕爾の忌
ここでは「まだ」に着目したい。僕が想像する夕方は(一般的だと信じるが、)「16時~17時くらい」「太陽が沈み初めて、オレンジ色になっている時」などである。「夕方の」句はこの想像とのギャップを「まだ」で捉えようとしている。夕方なのに「まだ」、夕爾っぽく叙情的な句を作りたいのに「まだ」、なのである。この「まだ」は麒麟さんの心情が吐露された言葉ではないだろうか。焦点は夕方の青い空であるが、それを見る麒麟さんがはっきりと浮かぶ。
描かれる人間(麒麟さんだろう)の心情を汲み取ることで鑑賞を楽しむことができる句が受賞作にはふんだんに盛り込まれている。いや、すべての句がそうした視点から楽しむことができると言っても過言ではない。
雪の日や大きな傘を持たされて
焚火して宇宙の隅にゐたりけり
秋の庭どこへも行かぬ人として
これらの句は「ポジティブな諦観」を表明するものとして解釈できないだろうか。「傘を持たされているけれど/隅にいるけれど/どこにも行かないけれど、それもまたいいでしょ?」と言うような。
しかし(/やはり?)、そんな人間も時としてダークな部分を見せてしまう。
学校のうさぎに嘘を教えけり
句が解釈される時、もはや句は作者のものではなくなってしまう。これはある種の必然である。となれば、その必然を逆手にとって「俳句は他者に読まれるもの」と想定する必要があるのではないか。もし俳句が他者に読まれることを内包するものだとしたら、麒麟さんの句のように何かを喚起する句であるべきなのではないか。他者に景色や物語を喚起することが作家である俳人の役割であり、喚起されたもので他者を楽しませることができるのならば、それが「良い句」の(一)条件なのではないだろうか。
僕は他者に何を喚起することができるだろうか。そういうことを頭の片隅に置いておきたい。
麒麟さん、北斗賞受賞おめでとうございます。また、いろいろ教えてください。
(編集者より。前号で、「西村麒麟北斗賞受賞評論公募!」として、「本BLOGの読者の中で、西村麒麟論を書いてみたいという方は、本BLOGの編集部ないし西村麒麟自身にご連絡を頂きたい。未公開の150句をお送りするので読んだうえ評論を送っていただければありがたい。」と申し上げたが、事故があり編集部では取り次がないので直接西村麒麟にご連絡ください。)
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