2013年4月5日金曜日

句集・俳誌渉猟(4)~「今」~/筑紫磐井


  • 「今」創刊号(2013年4月)

「白露」の終刊後、「郭公」といういかにも「雲母」・「白露」のレイアウトをそのまま受け継いだ雑誌が創刊され、蛇笏・龍太の系譜を継承した後継雑誌ができたと思っていたら、3月末になってもう一つの新しい雑誌「今(こん)」が届いた。発行人は瀧澤和治、編集人が保阪敏子であり、龍太の手塩に掛けた若手たちである。俳句を始めたばかりの頃、大学生だった私は主要な俳句雑誌を見て行く時に、なかなか東京の書店では手に入りがたい「雲母」を発行所から直接郵送してもらい、しばらく龍太の独特の雰囲気を楽しんだことがある。ただ、あまりにも整然とした結社の雰囲気に、いささか無頼派の私には合わないのではないかと思えたが、その時、見た「雲母」の最初の号で、高校生ながら巻頭作品を採っていたのが瀧澤和治であった。

夜の枝垂れ桜方里を冷たくす

という句である。膨大な会員の中から選ばれぬいた作品は、たしかに言葉も気品も格段のものであり、ある意味では叶わないなと舌を巻いて、以来龍太の身辺には近づかなかった(私が龍太に関係するのはその後20年近くたってからだった)。ただその後も、この高校生が気になってしょうがなかった。

滝澤は、いかにも「雲母」の作家らしく、目立たず、東京・中央俳壇に右顧左眄することもなく、龍太の地元で静かに熟成していった。雲母にはこうした作家が多いようである。「郭公」に残っている金田咲子や亡くなった金子青銅なども俳壇では目立たい人ながら多くの人からは信頼を受けていた。こういう流儀もあるのであろう。

先にも述べたように、「郭公」は「白露」の後継雑誌であって、読者には見た目も変わらない印象を与えたが、しかし内容が変わった(主宰が替わるというのは最大の変更だ)のだから器も当然変わるべきという考え方もある。「今」は、今村由男の表紙が斬新で「未定」や「鬣」のセンスに近く、「雲母」「白露」と全く違う。同人作品欄と会員作品欄があるが、前者は自選、後者は滝沢の選を経ているものの、両者とも半頁に10句を載せているから、巻頭を競うためにぎっちり詰まった雑詠欄とは異なり同人雑誌に近いレイアウトとなっている。これは見かけだけのものではなく、そこで探求される俳句の内容や理念にもかかわってゆくものであると考える。にもかかわらずそれは、外見以外の、伝えるべき内容ではしっかりとした継続性を持っていることも知らせてくれた。

「今」の最大の特徴は、創刊号から始まった福田甲子雄特集である。龍太の高弟に広瀬直人と福田甲子雄がいたが、どういう経緯で広瀬が主宰として後継雑誌である「白露」を創刊したのかは分からないが、この「今」は福田甲子雄系の雑誌といえるほどその影響が強い。瀧澤和治の「福田甲子雄 春の十句」、保阪敏子の「いのちをつなぐうた」(転載記事)、中村誠の連載「生も死もーー福田甲子雄を継ぐ」、斉藤史子の年譜など薄い頁数の中で、福田甲子雄への強い憧憬にあふれている。そこではひたすら俳句に、龍太に、甲斐の国に生真面目に向かい合った福田のエピソードがつづられている。広瀬系であることが歴然としている「郭公」とかなり違うのである。

山梨日々新聞の中村の文章によれば、龍太の妻俊子が当時発行の手伝いをしていた斉藤史子を帰りがけに呼び出し終刊の意志を伝えたらしい。平成4年の春のことである。どうやらこれが龍太の意志の初めての伝達であったらしい。それから、福田と保阪と相談して、箝口令の下で、整然とした終刊への作業が始まった。なぜなら膨大な会員への龍太の意志の伝達と会費の精算作業はすさまじいものであったらしい。このような例はおよそ俳句雑誌ではなかった作業だからである。
直接関係ないが、このエピソードを読んで、攝津幸彦の亡くなった時のことを思い出した。攝津幸彦は肝炎が原因でなくなったが、医師からは家族に余命わずかと宣告され、それは親も本人でさえも知らなかった。近くに住んでいた酒巻英一郎が攝津家を訪問した後見送りに出た資子夫人から告げられ、最後の面会と豈の継続をどうするかが宿題となった。酒巻は私に、私は大井恒行、仁平勝を語らって面会の機会を設け、その後のことを思慮した。ごく親しい人にも知らされていない秘密を知ってしまった苦しさは同感出来るものがある。

    *    *

福田の志を継いだ瀧澤たちの表現はどのようになっているのか。「今」創刊号の作品を見てみる。

空海の三鈷見てゐる春著かな    瀧澤和治 
喰積むに梁黒くして二代経し 
大寒の呪文ならねど口動く
襟髪も髻も吹かれ伊勢参り     保阪敏子 
接骨木(にはとこ)の花山の子は山が好き
山風に覚悟よろしき桜かな
雪晴れや超え曳いてとぶ山の鳥   小林久子 
山姥の血を吐き捨つる寒夜かな   城松喜 
春の潮名にも思はず考へず     原桐子 
ふた親を憎し憎しと夜の桜     村瀬勗

一昔前、『飯田龍太の彼方へ』を書くために読んだ龍太の大量の俳句には、名句よりも、そこに立ち至るために読み捨てられた多くの作品があり、むしろそうした作品に龍太の体臭のようなものがまとわりついていたように思っている。どこか古く、どこか懐かしく、どこか不気味である。一筋縄ではいかなかった龍太の世界が彼らの作品の中にも伺えるようである。

(「今」の投稿は、原則手書きであるらしい、プリンター出力もよしとなっているが、送信は原則ファックスが限度であり、ホームページもないし、メールアドレスも載っていない。パソコン環境もあるかどうか。その意味では、私が書いているこの文章も読まれる可能性は少ないかもしれない。むしろ、この記事は「今」以外の人に勧める俳句の道のあり方なのである。)


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