1)
津田清子の最近作までこぎつけたいのだが、戦後俳句の始まりに大きな役割を演じた天狼創刊と遠星集の重要事項を書き留めている、面白いのでここで本当にたちどまっている。つにはこの女流の位置づけが今まであまりされていなかったこと、山口誓子のこの欄への意気込みがここに集中しているような気がするからである。
筆者の気ままな感想に過ぎないのだが、山口誓子という人は、ストーリー作りが好きだたのかもしれない。遠星集での取り上げ方には、その号の秀作を上げているのは無論のことだが、そこにはあるていど構成上な文章のながれに従って句が選ばれている。
例えば、前号では、「靑田」「泳ぐ」などの季語を用いた句を取り上げ、単なる季節の言葉、というだけではなく、そこにこもる「根源性」を組み上げようとしている。論者によって定義が違うのであるが、人生論的解釈とか認識論敵解釈、といろんな捉え方がある。共通して、花鳥諷詠論が失っている内面性や思想性を呼びも襲うとしているのである。誓子の考え方も今ひとつわかりにくいので、とりわけ丁寧に書き留めてみる。
2)
もう一つ、この《遠星集》ではとにかく、例えば、初心の津田清子を指導する場合に、精神性も含めたものを俳句の形式のうちに立ち上がらせるべく、丁寧な指導を施している。
初心といっても、清子の場合には、たとえば「虹二重」の句についてはよほど感心したのか、一ページをまるごとこの句の批評に当てた。
虹二重神も恋愛したまへり 奈良 津田清子 (昭24年九月号 天狼)「二重の虹」と「神の恋愛」を「直結」したところ、また、「(略)正虹が男神か副虹が女神か、そんなことの穿鑿を許さぬほどにこの句は直接である。二重の虹の美しさが即ち神々の恋の美しさなのである。(傍線 堀本) 」
と、誓子自身が、その感じ方を正確に読者に伝えようと、意を尽くしている。
弟子も師も若かった、というべきか、いや「戦後俳句」自体が、出発期の若い気概をもっていた時代のはつらつとした詠み方であり読み方である。
この句で、対象へ向かう精神の率直で直接的なことを褒め、さらに彼女の美点として上げていることは、技法面では、説明抜きの置き換え、換喩の効果を認めている。
二重虹と恋愛は連結しやすいが、いきなり神の恋愛と断定したので、なるほど迫真力がある。津田清子の自句自解によれば、この句は、句会では取られなかったのにいきなり巻頭になってびっくりしたそうだ。
3)
昭和二十四年の「天狼」第二巻十二號、創刊
二年目である。山口誓子が雑詠欄の熱心な投句者になげかけたのは、どういう俳句を良しとするべきか、という天狼俳句のスタイルを考えさせることであった。
☆ 今号誓子の《選後獨斷》の前半
《靑女集》の句は《遠星集》の句とは違ひますね―との質問について。
①「遠星集」が私の句の模倣ではない。
②世代にはそれぞれの分擔がある。
③私の句をもって「遠星集」の基準とすれば、現在よりもつと狭い選句になる。
④若い作家は夢を持ってゐる。
⑤私は現在の自己に一番忠實でありたい。
と、若い作家と自分が違うことをいい、作品批評に入る。表鷹見。薄烏城。
☆ 後半 作品評は、まず巻頭句の「ウイット」にふれながら、それが「根源」に通じることもある、という視点を展開する。
石炭を雪ごと焚きて汽車迅し 表鷹見
この句がなぜ面白いか/
「石炭を雪ごと焚きて」この相容れないものが一緒くたに焚かれている。「これは謂ふところのウイットであって、快感はそこから生じる」・・、さらに、「雪は汽車を走らす力とはなりえない」、が「石炭と一緒に焚くことによって火力となり」汽車を走らせる力となる。
句の楚辞にしたがって、頭の中で作った「ウイットの句」であることを読み解く。この句は現實に触発されてつくったものではないだらう。/(堀本註。具象性がない、ことへの違和感をにおわせながら。)
しかし、単なるウイットだけではない。「汽車迅し」に切尖を向けて、「機関車の速力の実体を衝かうとしてゐるのである。」「これらのウイツトが根源に通ぜむとしてゐるのである。俳句滑稽説の起るのはかういう機微からであらう。」(Vol2.No.12.p40下線は堀本)
☆
誓子の批評の進め方は、使う言葉の概念付けがはっきりしている。この巻頭句よくできていると思うが、私が、なるほど、と思うのは、下線の部分である。即ち、以下のように特質をあげて評価している句は、必ずしも山口誓子の好む方法ではないのである。
; 頭の中で作った観念のウイットの産物であること。(写生即物の句ではない)
; しかし、ウイットが根源に通ぜんとしている。
; この句に俳句滑稽説の起きる機微を見ている。
この言い方は独特である。「俳句滑稽説」というのは、そう言う「説」としてあたのではなく、俳諧の起源に滑稽機知という要素を前面にだした、貞門、檀林、の流行を、松尾芭蕉が是正していったところなどを言うのだろう。また、そのころ、昭和二十三年俳句誌上の神田秀夫×井本農一の対談井本農一が、「俳句はイローニッシュである、対象を逆説的に捉えて表現する、という俳句イロニー説を表明」。(用語についてのみであるが下記のブログを参照して欲しい。)根源俳句というカテゴリーを模索する天狼の傾向とはやや違う角度から俳句の本質を述べた。滑稽ということもそこに関わって、誓子がつかったのではないのだろうか?天狼をすべた読んでいないのであきらまにできない。
(http://www.miraiku.com/Creative_Hint/lesson_1/senmon.htm「未来派宣言―俳句用語集」)
昭和二十四年六月號に、平畑靜塔が《茂吉に學ぶー虚子・茂吉研究ノ十二》に、この問題に触れている。誓子が、「俳句滑稽説」の生まれる機微といったウイットの要素もここに関連してくるのではないだろうか?
このように、天狼創刊同人が、俳壇で巻きおこしているひとつが、「根源論争」といわれるものであるが、誓子としては,遠星集の新人の作品がその根源性をしうt元してくれなくては困るわけである。
花火のみち見れば若さはとゞめがたし 薄 烏城
枯野より轍めり込む競馬場 川本 昇
信濃に栖み夜々を他國のいなびかり 百瀬耕一
の句を挙げて、情景の描写を通じ、対象の本質を捉える作家の視線を遡るかの如き解釈を下している。彼我の合一した新たな作品風景の現れが、せいしのいう「根源俳句」の一相、あるいはそれへのかのうせいをもっているもの、である。
4)
この十二月号一年間のまとめとして、最後に下記の句が入選。
木の実木にぎつしり汽車がぬけとほる
津田清子さん――汽車は林を抜ける。林の樹々は実を持ちその実はぎつしりと成熟して落ちむばかりになつてゐる。汽車はその林を抜ける。
木の実は汽車の響きに落ちたやうでもない。叉汽車は木の実を落としたつもりもない。汽車はその林を事も無く通り抜けた。
「木の実ぎつしり」に私は生命の充実を感じる。そして汽車はその充実した生命の眞唯
中を通り過ぎたやうに感じる。
私はもうこれ以上にこの句のことを語り得ない。この句はウイツトの俳句のやうには割り切れないのである。(山口誓子《選後獨斷》天狼」第二巻 第十二號)
誓子の獨斷の文章の文末にまとめとしてでてくる。独特な褒め言葉である。巻頭句の「ウイツト」を語らずに済む、本質直観というべき表現力を高く評価している。
5) 因みに。巻頭5位の清子のすぐあとには。
はたはたとびゆくも解せざることありぬ 三重 八田木枯
風の中の銀河となりぬ誘惑へ 同
まくなぎや和服を着たるばつかりに 大阪 島津 亮
梅雨雲の上に日はあり死にたくなし 同
しだいに降りてゆくと、
葬より帰りて燈蛾を爐に押ふ 宮城 佐藤鬼房
空蟬をひろふや蟬の鳴ける樹下 神奈川 高橋行雄
児が泣きしばかりの秋の日に帰る 大阪 宮里流史
雲の峰石にはずめる童女の毬 奈良 橋本美代子
等々、今日までも名を残した「天狼系の俳人」の若き日の句が出てくる。(了)
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