2018年4月27日金曜日

三橋敏雄『眞神』を誤読する 116.鈴に入る玉こそよけれ春のくれ  / 北川美美



116)鈴に入る玉こそよけれ春のくれ


 なかなか決着のつかない句である。整合性から考えてもあらゆる読みが可能になるからだ。「春のくれ」を考えても、時候の暮なのか時刻の暮なのかという点において、どちらでも可能な読みができる。最大の読者である自分をも欺く句を作ることが敏雄には可能なのだ。

 どのような読みが可能かを列記しよう。

例えば、鈴の暗がりに玉が入る景は、春の夕暮れがふさわしい。鈴の神秘性や古代からの人間とのかかわりを考えれば、玉がはいってこそ、獣から身を守り、仲間を呼び寄せ、そして神とも交信できる鈴になる。肉体にたましいが入り人として他者と交信できることを想望すれば、それは青年期の終わりを告げ大人になることを意味する、すなわち人生の春の暮、という読みもできる。また妖艶な読みとしても、その気怠さが春の夕暮れ景にふさわしい…など読みが可能になり、その答えは果てしなく続きそうだ。

 それが敏雄の句なのである。確定する読みの答えなどない。全ての読みを引き受けて一句が成り立っているといってもいい。

 さて、この句が何故「春のくれ」の仮名表記なのかを考えたい。

「春の暮」と「秋の暮」は「暮」の意が、夕暮れなのか、季の暮か江戸期に長い間論争があり、現在では、夕暮れの意味で使うことが多いと記述し、暮の春・暮の秋と別項を設けている歳時記と両義曖昧なままと述べる歳時記とがある。『日本大歳時記』(講談社)では、春の暮・秋の暮ではそれぞれ異なり、「春の夕」は「春の暮」から独立しているが、「秋の夕」は「秋の暮」からまだ独立していない。

仁平勝氏の『秋の暮』(評論集)の「秋の暮論」に於いて山本健吉論を丁寧に取り上げ、健吉論に一石と投じ議論をはじめている。そこには秋という季節の「もののあはれ」が関連している。「秋の暮論」なので当然「春の暮」については述べていない。

健吉の『基本季語五〇〇選』(講談社学術文庫)の「春の暮」は以下である。

春の夕暮の意味で今日使っているが、古くは春の暮、秋の暮ともに暮春・暮秋の意味に使った。暮という言葉は、大暮(時候の暮)と小暮(時刻の暮)と両義に使うので、両義を兼ねて気分的に曖昧に使っている場合もある。虚子(『新歳時記』)は共に夕方の義に定めて置くと言っているが、どちらの意味にとるかは、一種一句の趣によるべきである。今日では春の夕暮れに使うことが多い。ただし詩歌俳諧の上の、もともと春の暮、秋の暮ともに日常生活語でなく、雅語に属するから、曖昧につかわれていても、生活上の何の支障もなかったのである。春の夕に対して、多少暮が進行した形だが、春の夕暮れともいうから、それは結局語感の問題である。
『山本健吉/基本季語五〇〇選』(講談社学術文庫)

時候の暮か時刻の暮かやはり曖昧である。「春の暮」では春という季節の華やぎや気怠さ、憂い、などが含まれているだろう。それを全て含んだ上での「春のくれ」ではないか。敏雄は、この曖昧さに同調しつつ、「春の暮」の語感を考え仮名表記にしたのか。以降の敏雄の「春の暮」の句をみてみたい。

相知らぬこちらも翁や暮の春 『長濤』 
天然の石の大小春の暮 『畳の上』 
十七字みな伏せ字なれ暮の春 〃 
老いの春とは暮の春のこと飯御代(おかわり)『しだらでん』
生前の長湯の母を待つ暮春  『しだらでん』以降

いずれも人生を全容した春の暮と読める。それが俳句としかいいようがない。掲句の「春のくれ」はいささか夕暮れに傾いている気もする、…やはり決着がつかない。曖昧にするための仮名混じりなのだろうか。



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