あれこれ本を読んでいると、たまたま違うひとが・同じ時期に・同じことを言っていた、というシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)に出会うことってありますよね。
このシンクロニシティは心理学者のカール・ユングが言っていた概念なんですが、ユングが人類の共通の基盤としての〈集合的無意識〉に眼を向けたように、偶然の一致というのは実はなんらかの背景や基盤が生成されているしゅんかんに起こるんじゃないかとも思うんです。なにかの背景が生まれているときに起こるものだと。
今回わたしが川柳においてみたのは、なかはられいこさんと小池正博さんの発言におけるシンクロニシティでした。
名古屋市のねじまき句会による『川柳ねじまき』3号が2017年1月に発刊されました。
完璧な春になるまであとひとり なかはられいこ
つつつつつ、つっつっつっつあと少し 中川喜代子
この町を毎日去っていく電車 瀧村小奈生
幸福の王子の足もとに眠る 妹尾凛
クリストファーと名付けたくなる朝がある 魚澄秋来
ゴミ入れるゴミ箱もゴミ年の暮れ 安藤なみ
湯気の中鎌倉大仏座り込む 犬山高木
完成までカーブが続く枯野原 青砥和子
おたがいの白の深さをたしかめる 米山明日歌
向き合ってきれいに鳥を食べる夜 八上桐子
もう少しで中途半端にたどり着く 三好光明
絶望が袋の中で動いてる 丸山進
飛行機雲すっきり伸ばす股関節 猫田千恵子
まずは資料請求たんぽぽ咲く国へ 二村鉄子
『ねじまき』のみなさん各人がみずからのワールドを展開されているので『ねじまき』の特徴を一言で言い表すのは難しいんですが、あえて言ってみるならば、〈悪意〉だと思うんですね。
これは私も今言ってみて意想外だったんですが、ただ今各人の連作を読みながら自分の気になる句を一句ずつ抜き出していくそのなかで、〈悪意〉を感じたんですね。これは誤解されないように急いでいうといい意味での悪意です。世界をずらす力としての悪意(ちなみに私は現代川柳と悪意の問題はとても重要なのではないかと考えています。悪意は表現の源かもしれない)。
たとえば上のなかでは、安藤さんや八上さん、丸山さん、三好さんの句がわかりやすいかもしれません。ただ例えばなかはらさんの春の句にしても、春に対する悪意とみることもできると思います。春に「完璧」を求めるなんてそれはひとつの悪意なんですから。悪意とは、世界を〈斜めから見る〉まなざしです。
ところで、今回の『ねじまき』は今までと違い、句会の実況中継をやめて代わりに「ねじまき句会を実況しない」というなかはられいこさん、二村鉄子さん、瀧村小奈生さんの三人が川柳を具体的に「読むこと」について話し合う記事が載っています(ちなみにこの「実況しない」というタイトルも特徴的ですよね)。この記事でわかるのは「ねじまき句会」が非常に「読むこと」を意識/重視している句会であることです。作る、だけでなく、読む、ということについてもあわせて考える。それもねじまきの特徴だと思います。
「ねじまき紀行」という記事のなかでなかはらさんのこんな発言が紹介されています。
「かく」の平仮名表記が議論の対象になった。「書」という題でも「描」という題でも出せる句である点で、どちらかに決める「作者としての覚悟が足りない」というなかはら発言が飛び出す。
短歌や川柳では表現としてあえてひらがな表記にすることがありますが、それは文脈によっては「覚悟が足りない」と思われることがある。ひらがなが多様性として効果を発揮することもあれば、表現者の決意の有無の問題として問われることもある。
ここでは、表現者としての〈覚悟〉が問われています。わたしたちはなにかをつくる際にそれそのものだけでなく、それをめぐる〈覚悟〉をかたちづくる必要がある。
この〈覚悟〉について偶然まったくおなじ時期におなじような発言をしていた川柳作家がいます。小池正博さんです。『川柳木馬』(150・151号合併号、2017年1月)に「川柳の言葉をめぐる十五章」という表現者のための十戒のような記事を書いています。小池さんの言葉から箇条書きにして私がまとめてみたいと思います。
1、俳句と川柳との混淆をどう考えるか。俳句と川柳の混淆については歴史的な経緯があり、それを踏まえることなく作句するのはいかがなものか。
2、口語と文語をどう使い分けるか。口語文体とはいま使われている話し言葉そのものではなく、どのような口語を使うかについては意識的でなくてはならない。
3、どの言葉によって一句は川柳になるのか。どの選択によって類想を打ち破るのか。
4、連作と単独作をどのように使い分けるか。どのように連作としての時間意識をつくっていくのか。
5、意味か、イメージか。理屈だけでなく、イメージで想像すること。大胆な飛躍もふくめて。そこに読みの可能性もある。
6、川柳で一人称をどう使うか。一人称を安易に使用すると効果がなくなってしまうことがある。「俺」も「僕」もどっちも使いたい、でいいのか。
7、その言葉は本当に自分の言葉なのか。これまでの先行く表現者たちががもうそれは言葉にしていたのではなかったか。
8、下五で答えを出してもいいのか。答えは完結になりそこで閉じてしまうこともある。いいのか。
9、メタファーの句はもう古くないか。メタファーの書き方は便利だが、もう古いと思う。
10、家族詠をどのように詠むか。誰でも詠む題材にもかかわらずどう新鮮さを出すか。
11、どのように同じ単語を二度使うか。反復の問題。
12、川柳で二人称をどう使うか。「君」や「あなた」をどう意識して取り入れる/取り入れないか。
これらはあくまで小池さんの言葉から私がまとめたものなんですが、小池さんはこの記事の最後にこんなふうに書かれています。
さまざまな川柳があり、さまざまな書き方がある。借り物ではない「私の言葉」を発見することは表現の出発点である。既にこういうものだと知っている「私」ではなく、言葉に現れてくる未知の「私」である。
ここにも私は表現者の〈覚悟〉への問いかけがあらわれていると思います。
なかはらさんと小池さんの二人の覚悟をめぐる発言からわかるのは、なにか。それは覚悟というのは大上段からふりかざすものではなく、言葉の細かさに宿るものだということです。
なかはらさんはひらがな表記の話を、小池さんは句作の上での語彙の選択や組み立ての話をしていました。
覚悟というのは決して表現者の内面や心情の問題ではない。そこに近いんだけれども、でもそうでもない。言葉を配列し、組み立て、構成していく際の細かな部分にあらわれてくるものだ。そうお二人が言っているように思ったんです。そしてその細かさがだんだんに重ねられ、体系化されていくことで、その世界観ができあがってくるのだと。それを決意と呼んでもいいかもしれない。
現代川柳が他ジャンルを意識しながら多様化していく過渡期に、あらためて表現者の覚悟をめぐる発言がなかはらさんと小池さんから時期をおなじくして出たことはとても興味深いことだと思ったんです。
だから、おもったんです。本を閉じたときに。家をでるまえに。書いておかなければ、と。
魅力的な作品に出会うたび、その一句がどのような経緯で生まれたのかを知りたいと思う。どのように言葉が選ばれ、どのように言葉と言葉が繋がれ、どのように一句として立ち上がったのか。知りたくてうずうずする。
読むことは愛なのだ。
(なかはられいこ「秋の真昼の品定め」『ねじまき』3、2017年1月)
ずらすということなら、言うまでもなく俳も諧もそういった意味を含んでいますね。
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