1) 「京大俳句」 昭和十一年の論調
秋元不死男(東京三)の「反省」は、俳句の詩形の性格に及ぶものである。*短い、ということと、*詩型自体が伝統をになっている、ということ、自分の中でこれを納得しないことには、そこに関わっても効果が発揮できない、というものであり、これは筆者にも平明な理屈として納得できるのである。天狼にあっても、秋元不死男や平畑靜塔にしろ、あるいは永田耕衣にしろ、かなりわかりやすく平易にしかし真剣にそのことを語っている。その人たちが「根源」というところに集約していった要素をどう認識しているかは、あるていどわかるが、それで問題が解決したわけではない。
とくに、秋元不死男の論法は、状況を説明する文章としては一番わかりやすいものであった。
ここでおもいだしたことがある。戦前の昭和十一年「京大俳句」の第四巻第七號~十一號あたりの、「生活意識」の特集である。会員作品やエッセイの他に、特集として次の項目がならんでいる。
「京大俳句」第四巻第七號(昭和十一年七月発行)
目次(一部)
生活意識を基準としての俳人層―諏訪優(堀本註これは平畑靜塔のこと )
新興俳句の生活意識―古家榧子
風流性と生活意識―和田邉水楼
都市生活俳句について―三谷 昭
田園生活俳句のために―波止影夫
作家と生活意識
小澤靑柚子論―岸風三楼
森川暁水氏の俳句に就て―柴田水鵶
片山花御史論―野村柊雨
「京大俳句」第四巻第八號(昭和十一年八月発行)
目次(一部)
俳句の現實性―中川京二
季の問題―井上白文地
生活意識と文藝―麥吹子(堀本註・誰かの変名らしいが不明)
新興俳句は現下何を内省すべきか―新俳話會(堀本註・座談会である)
東京三(司會)・湊楊一郎・澁谷貢。山畑一水路・藤田初巳・上田夏萩・嶋田襄・内田暮情・古家榧子・小澤蘭雨・小西兼尾・高篤三 *他に、西東三鬼・山田空廊・清水昇子・三谷昭(筆記)
上記の人たちは。昭和十五年,十六年の俳句弾圧事件で拘束されたり、発行停止に追い込まれて、新興俳句が壊滅してゆくのである。そのように、監視が強くなってゆく中、自分たちの俳句革新のテーマについて、かなり真剣な議論を繰り返している。これらの問題域は、明らかに、戦後、「俳句人連盟」や「天狼」に結集してはじまった戦後俳句の課題に続いている。
この段階では、私には秋元不死男の論調が一番わかりやすい。
「京大俳句」のみならず、新興俳句を名乗る俳人は、「反傳統」の立場であることは、この時期にもっとも強調されているのだが、私が「京大俳句」を読んでいて、なかなかわからなかったことは、例えば《新興俳句の生活意識―古家榧子》でも、結局は俳句の外側の社会性の説明になってゆくわけで、言葉の表現の特質が語れなくなっている。諏訪優(平畑靜塔)が、俳人は俳句以外に違う生活層に属しているのだから、そこを遊離するな、ということを言っている。《生活意識を基準としての俳人層―諏訪優》(京大俳句・4vol.no.7)
その意味で、俳句の題材としての自己の環境としての「生活」を詠むところから。「生活意識の尊重」へ発展して、ホトトギスの花鳥諷詠のお遊びから抜け出した、と評価している。
事実、ホトトギスの俳人には詠めない、というより忌避して詠まないようなしかし表現の魅力を備えた句が現れているのである。
古家榧子のあげた事例を借りれば、
飢餓の児らうすらひ道をきて素足
飢餓の児に霧らふ冬夜のまどゐなく
塵箱に獲し食物のこほりたる 酒井桐男 (食物を求めて―街の放浪少年―)
酒井君のこの作品などは/遊び俳句などとは本質的に相違を持っている。(前掲。古家榧子)
他の例は割愛するが、都市の下層にしずんでゆく無名者の感受性をすくい上げようと、また、自分の生活現場から遊離しないで俳句を極める、これはひとつの功績なのである。
ただし、切実さとしてはわかるが、この生活意識、や都市生活の発達に伴う素材の拡大、というのが、逆に新興俳句の真の自由な拡大を阻んでいるのではないか、というのが、平畑靜塔もまた、当時もっとも優れたる理論家ではなかったかとおもえる東京三などの密かな恐れであったように見受ける。
というのは、「京大俳句」第四巻第十一號(昭和十一年十一月発行)では、《新興俳句は今どういう時期にいるか ―東京三》という評論が出ている。
これには、その「生活意識」を詠むことは、花鳥風月を素材にしてはいけない、ということではなく、お遊びではない花鳥風月の俳句を読むべきだと言っている。
われわれは、花鳥諷詠派の詩的精神ー風流詩精神ー、客観寫生の瑣末性、皮相性。沒主観性などを批判してきた。/(彼らの俳句は)『今日の時代が要求する文学の一種』として価値がありや否やとの批判であつた、『青年文學』の資格があるかどうかの検討だつたとも云へよう。/一般文學の中で批判するといふやりかたであつた。/我々のこの批判は正しかったが、/かうした批判はこれまでのものである。/花鳥諷詠派が「老人の文学」であることを突き出した、いうのだがここからがさすが論争上手な東京三(秋元不死男)、だと思うのである。
東京三は、状況が移行したので、今までのように「文學一般」の中で考えるのではない。「俳句それ自身の中で実践的に批判すべき」、「自己の建設に向かうべき」、だとする。
東がいうには、評論を必要としない、作品での新しさの提示。
それには、「花鳥風月自体も素材にすべき」ということ私が面白く感じたことは、われわれの花鳥風月俳句を作るべき、だと力説。「ホトトギスにとつて眞に恐ろしかつた作家は、山口誓子だった、と思ふ」、「山口誓子は新しい花鳥風月を旺んに作っていゐた」と言っている。
.さらに、
花鳥諷詠派には、傑れた俳句技術の所有者がゐる。とりわけ例へば中村草田男などはその一人である。/中村草田男の俳句の中には、俳句獨特の手法―就中、單一化の手法―が美事に撮取されてゐるし、又、俳句といふ短詩型文學が持つ、あの壓縮性、集約性が美事に我々を魅了してゐるのである。かうした技法は學び取らねばならない。
こういう「内省」が昭和十一年にすでに始まっていて、それは、あるべき議論のすがたである。このテーマは、弾圧をくぐって、戦後に引き継がれてゆくのである。
2)
戦時下で弾圧された「土上」「俳句生活」「廣場」の俳人たちが五月に「新俳句人連盟」を結成している。東京三、栗林一石路、石橋辰之助。三谷昭、藤田初巳、島田洋一、富澤赤黄男他在京新興俳人約二十名とある。
俳句事件に連座して獄中に病み、それがもとで昭和十九年に死去した島田青峰の三回忌を追悼する集会が開かれたのは六月である。この情報が、簡単に書かれている。
この「新俳句人連盟」は、機関誌「俳句人」を昭和二十一年十一月に創刊し、いちはやく、俳句の戦後の民主化に着手した。
《戦争中の俳壇・古家榧夫》《俳壇受難史。藤田初巳》《父、青峰・島田洋一》らの記事が並ぶ中、東京三はここには、俳句をこころざすひとたちに向かって、《俳句入門講座》の連載を始めている。論調は一貫している。(続)
3)
さて、いま手元に、「現代俳句」の創刊號。昭和二十一年九月五日發行、編輯人、石田哲大(波郷)賣価三圓五十錢、がある。どういういきさつで手に入ったのか・・忘れてしまっている。それにしてもきれいにコピーして製本してある。他にもパラパラと、昭和二十三年八月号、十月号。二十四年二月,十月号の「現代俳句」を持っている。これは実物。欠けている号にも重要論文があるのかもしれないが、それを気にしなければ、このていどでも「戦後」の俳句総合誌の雰囲気がかなりわかる。筆者はさほど文献マニアではないが、一冊でもいいから当時そのままの雑誌のいまや赤茶けたページを手にとってその重さをかはかり、読みにくい活字を実際に読んでおきたい。読者にもそれをすすめる。
この「俳句研究」創刊号の目次には、
《芭蕉に於ける感性と理性・由良哲次》、《野哭調・加藤楸邨》。《新興俳句の復活・東京三》。《無季と超季・日野草城》、というような論文が並んでいる。いずれも、戦後の出発にあたって俳人の覚悟を述べたものであるし、戦前から続いている俳句の論争もまだ、消えていないことをみせている。
4)
《新興俳句の復活・東京三》では、なかで、東京三名の秋元不死男が、各俳誌の復刊に触れている。
戦時中に弾圧された新興俳句系の復活がさかんであることは喜ばしいが、その復活への意思は彼らの任務である、ことが強調されている。
というのは、東京三は、この動きの中で、戦後自由主義が認めらてきた時期にあってさえも、戦時中のこの弾圧を「俳句史の一大汚点」と考える意見があることを厳しく批判して、この批判を事実において跳ね除けねばならないということがそれを書かせた真の気持ちである。昭和二十三年現在復刊の兆しがある。「旗艦」が「太陽系」と改名され復活している。
昭和十五年「京大俳句事件」後、昭和十六年には「土上」、「廣場」、「俳句生活」(自由律)、の俳人が大量検挙された。関西の「旗艦」「火星」、九州の「天の川」などは、新興俳句系でも検挙されなかった。同系の結社でもこういう違いがあるし、個人でも、たとえば、島田青峰がどうして「アカ」として逮捕されたのか、取締の警官でもわからない、というような裏話を、東京三(秋元不死男)は披露している。
そして、このように概括する。新興俳句は、保守反動の俳句とは違った生き方をしてきたから今後もそうあらねばならない、というのが、一貫した懸念であり、要求である。
新興俳句が全體的、共通的な仕事としてやつた運動は、無季俳句、連作俳句、俳句の近代詩化、様式の新化、素材の拡充、接社會的・即生活的作句、傳統俳句の批判、封建的結社意識の排除などであつた。かうした仕事は、おそらくはこれから、ますます研究されなくてはなるまいと思ふし、それをやらないやうでは何の新興俳句の復活ぞや、と云ひたいのである。しかし/(略)/すぐれた指導者が出てこないと新興俳句はばらばらになる。
「現代俳句」創刊号26p 東京三《新興俳句の復活》昭和廿一年五月書く
第一に連作俳句の濫作、第二に文學化の低調、第三に「切れ字」の研究。第四に季語の問題、第五に俳句への愛情の問題である。/新興俳句運動と云つても、歸するところは文學の運動である。簡単に云へば、時代に適つたよい俳句をつくるといふことだ。/中略
つまり、俳句ならでは示し得ない,獨得な、内容と表現がぴつたり統一された抜きさしの出來ない作品を作る苦心と研究を要望したい。/俳句の勉強が足りない、といふそしりを受けねばならない新興俳句の作家,曾て案外多かつたやうにわたしは思ふ。/中略「現代俳句」創刊号 東京三《新興俳句の復活》27p
かなり厳しいいいかたで、自分たちの陣営の欠点について自省と反省を迫っているのであるが、要は、俳句の一句独立性を真剣に示す、ということ、切れ字がなぜ必要か。季語も真剣に攻めねばならないこと、なによりも「最短詩型たる俳句を熱烈に愛するの情を忘れている人が多かつたやうに思ふ」と、後日昭和二十六年に天狼三周年大会で講演した趣旨がもっと原則的に明確に語られている。このとき東京三こと秋元不死男がいう優れたリーダーの条件を兼ね備えた存在として、まさに「山口誓子」を指していたのである。
新興俳句が彈壓された時に、手を打つてよろこんだ、そして戰爭犯罪人の尻馬に乗つて反動をやつた多くの俳人がゐる。/略
こういうことは、私などには実感としてはわからない。だが、戦時の記憶なまなましい当時の雰囲気としては、弾圧された方にとっては、怒りをともなう強い実感であったのだと思う。
新興俳句は、今やなぜ復活するやうになつたかといふことをよく考へてみなくてはならない。 「現代俳句」創刊号、昭和21年9月刊。27p 東京三《新興俳句の復活》(昭和廿一年五月)
(了)
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