2013年1月25日金曜日

近木圭之介の句【テーマ:一】/藤田踏青

心にはいつも一匹の蝶と空間

昭和39年作   (注①)


一匹の蝶はある種の安らぎであり、空間とは心の果てしない様を象徴しているのであろうか。また蝶と空間とは個と全とが相対した形で存在している人間そのものを指している様にも思われる。しかし空間に限界を認めるのが人間本来の姿であるらしく、ここに掲句を暗示するような詩が残されている。

<S刑務所に沿いて>              昭和27年作   (注②)
赤い煉瓦塀が青空をたち切っている
それは白い道に沿ってつづいている
外からは 内が見えず
内からは 外が見えず
嘗って 心の交流はないものにおもわれた
と 日を浴びた黄ろい蝶が一匹
ひらひらと塀を越えていった
それは 心あたたまる一瞬であった

この詩でもそうであるが、一匹の蝶は空間内にありながら空間を越えた接点として存在している。そしていつしか作者自身が蝶そのものに変容してゆくかの如くに。しかしそこには厳しい現実が立ちはだかっているのも確かであり、次の様な句も並列されている。

蝶の一匹が吹かれているゆえに断崖         昭和39年作   (注①)

その蝶は己自身であり、現実世界への認識と共に存在自体の切羽詰まった表情がみてとれる。また画家でもある圭之介の自己への視点は、一匹の蝶から一本の木へも移行してゆく。

描きたいのは一本の哀しい木 その内部       昭和58年作   (注①)

一本の木を哀しいとみる視点、そしてその内部という自己省察にまで至る要因は何であろうか。それを示唆するものが下記の詩である。

<パレットナイフ23 Ⅳ>                     (注③)
やがて一夜の樹木から脱け出すものは
(私)に眠っていた黄土色の毒
いま宴の一つもありはしない宇宙へと・・・

私という存在を閉じ込めていた樹木という境界は、ある意味で人間の生そのものに伴う毒を保管するパンドラの箱であったのかもしれない。それを開いてしまった後の世界は宴の一つもありはしない宇宙へと溶解してゆくのであろうか。何故かそこにジャン・コクトーの世界を垣間見るのだが。

(注)①「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊
   ②「近木圭之介詩抄」 私家版 昭和60年刊
   ③「近木圭之介詩画集」層雲自由律の会 平成17年刊

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