馬酔木創刊一〇〇周年記念号
馬酔木十月号は馬酔木創刊一〇〇周年記念号であった。本来これに合わせて馬酔木一〇〇周年記念大会が開かれる予定であったがコロナのために延期。四年の一月二九日に開かれる予定となった。
(中略)
・・・一〇〇周年記念号は比較的世代の若い作家による評論が多く載せられた。これを踏まえると馬酔木百年の歴史的意義が浮かび上がってくるのが特徴だ。
その最大のポイントが、馬酔木と新興俳句との関係である。今井聖、坂口昌弘、筑紫磐井がこの問題に触れ、高野ムツオも紹介しているが、実はこれが今後の論争の種となる問題を多く含んでいるのだ。
新興俳句論争
今井聖は「「新興俳句」は「花鳥諷詠であった」で現代俳句協会の『新興俳句アンソロジー・なにが新しかったか』について、「新興俳句」の中に、秋桜子、楸邨、波郷を含めていることを批判している。「虚子が秋桜子の主観よりも素十の客観写生の方に組みしたのが「ホトトギス」離脱のきっかけとなったのであるから秋桜子は「新興俳句」の初動を担ったとまずは考え、ならばそこに所属した俳人も「新興俳句」の俳人として考えてもいいという理屈である」と解説し、また高野ムツオが〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉を馬酔木で取り上げたことから秋桜子自身が季題と次元を異にした発想を肯ったと理解し、これに対し「二人の論旨の展開はかなり強引に感じられる」と裁断している。
一方、坂口昌弘は「秋桜子と「馬酔木」の系譜は新興俳句に括ってはいけない」という長い題で、「「『現代俳句大辞典』では「新興俳句」について「「『ホトトギス』から『馬酔木』の独立したことに伴い新しい俳句運動が起こり、これを新興俳句(金子杜鵑花の命名という)と呼んだことに由来する」「秋桜子が無季俳句批判を行い新興俳句運動から離脱したとされている」と筑紫磐井は書く。川名大は『戦争と俳句』で「馬酔木」を新興俳句誌としている。しかし秋桜子が新興俳句運動を始めたことやその運動から離脱したという事実は全くない。」と述べる。
これに対し高野ムツオは「百年の重み」という祝辞風の文章で(秋桜子からは)「新興俳句や人間探求派がなど生まれ、戦後、社会性俳句、前衛俳句そして伝統回帰や俳諧性の主張など、多用な俳句の流れが生まれたきっかけといえましょう」と淡々と述べている。
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要は、秋桜子や馬酔木は新興俳句であったのかどうかという歴史的評価が今もって定まっていないのである。しかしこれは、評価という価値観以前の事実の検証がない為もある。
実は、昭和九年頃までは新興俳句は自由律俳壇で使われていたようである。俳壇一般に普及したのは昭和一〇年になってからである。
特に注目したいのは、加藤楸邨の評論で、「新興俳句批判(定型陣より)」(俳句研究昭和一〇年三月号)、「新興俳句の将来と表現」(俳句研究同四月号)、「新興俳句運動の誤謬」(馬酔木同一〇月号)、「新興俳句の風貌」(馬酔木昭和十一年一月号)と新興俳句の論争は一手に加藤楸邨が引き受けている。それも決して新興俳句に批判的ではない。最も特徴的なのが「新興俳句の風貌」で、ここで楸邨は新興俳句作家として九名を上げ作品を紹介しているが、その筆頭に水原秋桜子と山口誓子をあげているのである!
面白いのは昭和十一年で、この年刊行された単行本の宮田戌子編『新興俳句展望』で「新興俳句結社の展望」(藤田初巳)と「新興俳句反対諸派」(古家榧子)が載っているが、「新興俳句結社の展望」ではその筆頭に「馬酔木」が、「新興俳句反対諸派」ではアンチ新興俳句の「新花鳥諷詠派」として秋桜子と誓子を上げている。一冊の本の中でのこの混乱が、新興俳句をめぐる当時の混乱を如実に示しているようである。因みに、今井聖が新興俳句を花鳥諷詠としているが、古家の方が今井よりはるかさきに秋桜子と誓子を花鳥諷詠派と断じている。ことほど左様に、根拠もないラベル貼りは虚しいものである。
このようなことになるのは新興俳句には確とした意味がないということである(これは新興俳句の批判をしているのではない。言語一般に通じて言えることであるが、言葉の字面は変わらなくても意味は時々刻々と変わって行くと言う事実だ)。関東大震災の直後、復興、再興、そして新興という言葉が生まれた。小説、戯曲、芸術、国家論、そして短詩型まで次々と新興は生まれた。今日の新興は明日の新興ではなかったのだ。昭和一〇年に水原秋桜子も馬酔木も間違いなく新興俳句であった。昭和十一年から次第に怪しくなって行く。これさえ分れば、馬酔木誌上の議論は解決が付くはずなのである。
(以下略)
※詳しくは「俳句四季」1月号をお読み下さい
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