2019年6月14日金曜日

【抜粋】《俳誌要覧2019》より 「俳句史とは何であるか――「俳句四季」創刊三十五周年に寄せて」  筑紫磐井

一.俳句総合誌九十年
 「俳句四季」創刊三十五周年に寄せて、俳句総合誌における同誌の位置づけを考えてみよう。特に長い俳句史の中で「俳句四季」はどこに位置するのであろうか。やや悠長な話題となるが、約九十年間における近・現代俳壇史に登場した総合誌を眺めてみることから始めてみよう(太字は現在も刊行されているもの)。

改造社等「俳句研究」(昭和九年~平成二三年)[終刊]
角川書店「俳句」(昭和二七年創刊~)
牧羊社「俳句とエッセイ」(昭和四八年~平成六年)[終刊]
東京四季出版「俳句四季」(昭和五九年創刊~)
本阿弥書店「俳壇」(昭和五九年創刊~)
弘栄堂書店等「俳句空間」(昭和六一年~平成五年)[終刊]
毎日新聞社「俳句アルファ」(平成五年創刊~)
朝日新聞社「俳句朝日」(平成七年~平成十九年)[終刊]
文学の森等「俳句界」(平成七年創刊~)
三樹書房「WEP俳句通信」(平成一三年創刊~)


 意外に総合誌の数が少ないことに驚かれるかも知れない。
 俳句総合誌の草分けとしては、まず「俳句研究」を上げなければならない。戦前の代表的な硬派の雑誌「改造」や多くのベストセラー小説を輩出した大出版社改造社が短詩型文学部門に進出し、短歌の「短歌研究」に次いで創刊した雑誌で、「俳句研究」は当時の主流であるホトトギスに対抗して新興俳句や人間探求派作家を中心に編集発行された。一時山本健吉も編集を担当し、「人間探求派座談会」や「支那事変三千句」等戦争俳句を特集し、まさに戦前を代表する俳句雑誌となった。しかし軍部の圧力により改造社は解散され、終刊する。戦後復刊したが、改造社の経営破綻でいくつかの出版社を転々とし、一時高柳重信編集による存在感のある雑誌の時代が続いたが、最終的には角川書店系の出版社で発行され終刊した。
 「俳句」は俳人である角川源義の経営する角川書店から発行され、戦前の「俳句研究」に匹敵する雑誌となった。初期の編集長は、角川、大野林火、西東三鬼のプロ俳人が務め、現代俳句協会と蜜月を保った編集により、協会も「俳句」も飛躍的に拡大した。社会性俳句や前衛俳句はこのような時代に生まれている。編集方針が大きく変わったのは、現代俳句協会から俳人協会が独立した頃(昭和三十七年)からであり、「俳句」は俳人協会に近い立場で編集されるようになった。それでもアカデミックな内容で多くの俳人の信頼を得たが、その方針が大きく変わったのは昭和六十三年秋山みのるが編集長となり、特に平成になって「結社の時代」を標榜するようになってからである。秋山により〈初心者向けの俳句入門〉が総合誌の典型となり、三十年後の今日にいたるまでその伝統が続いているのである。
 牧羊社は「俳句」と「俳句研究」(高柳編集)の間隙をついて登場した新興出版社であり、「俳句とエッセイ」を創刊し、飯田龍太、森澄雄、金子兜太らの戦後派作家を売り出し、戦後俳句史の評価を確定的なものとした。また、若手の廉価版処女句集シリーズを刊行し、膨大な若手を俳壇に送り込み、今日に至る長谷川櫂や小澤實などの時代を作った。その後経営が行き詰まったようで出版社も雑誌も名前が消滅しているが、そこで育った編集者たちが拡散し、現在の多くの俳句出版社を支えている。
 こうした「俳句」一人勝ちの時代、あるいは「結社の時代」に向おうとする時代に創刊されたのが、東京四季出版「俳句四季」と本阿弥書店「俳壇」であり、俳壇の閉塞感に新しい風を導き入れることになった。「俳句四季」のビジュアルな誌面と「俳壇」の新人発掘は今も一つの特徴となっている。これに続き、新聞社系の「俳句アルファ」、「俳句朝日」が創刊されているが、これ以降については記事も煩瑣となるので説明は省くこととする。
 これらを見ても分かるように、俳句総合誌は俳句における時代相を比較的忠実に反映しているようであり、或いは俳句総合誌が俳壇を牽引した時期さえあったようである。こうしたことから、俳句総合誌の功罪は、現代俳句史と照らし合わせて見えてくるはずである。しかし難しいのは、近・現代俳句とは一体何であるかということが必ずしもはっきりしていないことである。今回、「俳句四季」創刊三十五周年の論考の執筆を依頼されたことから、「俳句四季」とは余り関係ないが――しかしそれ以上に重要であることは間違いない――、近・現代俳句とは何なのかを本論の第二の話題として取り上げてみたい。
(以下略)

※詳しくは東京四季出版「俳誌要覧2019」をお読み下さい。
【修正】
 上記記事に追加しておきたい。
○書肆麒麟・弘栄堂書店「俳句空間」(昭和61年~平成5年)
を加える。
 「俳句研究」については上記記事では一見継続して発行が続いているように書いてあるが、じっさい、「俳句研究」の発行元は、戦後しばしば変更されていた。特に、角川書店「俳句」と対峙した俳句研究新社版「俳句研究」は、高柳重信の死(58年7月)後、集団編集体制となったが、俳句研究新社版「俳句研究」としては60年9月で終刊となり、角川書店系の富士見書房版「俳句研究」に移行し復刊されることとなった。このような中で、俳句研究新社版「俳句研究」の編集をしていた澤好摩(書肆麒麟)が浄財を集めて創刊したのが「俳句空間」であった。しかし、5号で刊行が行き詰まったため、弘栄堂書店から第6号の刊行が継続され、大井恒行が編集に当たったものである。総合誌としてはユニークな編集がとられたが、特に弘栄堂書店版「俳句空間」は俳壇の大家(金子兜太、稲畑汀子)から新鋭までの協力を得て刊行された(何せ十分な原稿料が払えず、原稿料は一律千円の図書券であったと記憶している)。初期は阿部鬼九男、夏石番矢、林桂らが、後期は攝津幸彦、仁平勝、筑紫磐井が編集協力した。しかし社内事情(弘栄堂書店は、出版社ではなく、旧国鉄系・キオスク系の書店であり、雑誌の発行には複雑な事情があったと聞いている)もあり、平成5年23号をもって終刊したものである。第6号は「寺山修司の俳句世界」、第23号は最終号らしく戦後生まれの作家を網羅した「現代俳句の可能性」で幕を閉じた。特に新鋭発掘に力を注ぎ、若手俳句欄で募集し、ここから、高山れおな、倉阪鬼一郎、五島高資、今泉康弘が登場した。
 この「俳句空間」の顛末については、澤好摩、大井恒行の協力を得て、「豈」三十七号俳句空間篇(2003年10月刊)で回顧されている。

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