2019年5月24日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~⑫ のどか

第2章‐シベリア抑留俳句を読む
Ⅱ石丸信義(いしまる のぶよし)さんの場合(1)


 石丸信義 明治43年2月13日愛知県越智郡桜井町に生まれる。昭和5年善通寺輜重隊入隊。2か月教育後帰休、輜重兵(特務兵)。昭和12年召集により中国上海上陸、蘇州まで進む。南京陥落後台湾高尾へ引揚、13年帰還。16年召集第11師団輜重隊入隊、満州城6416部隊編成後渡満、佳木斯(ジャムス)に駐屯、終戦。
 入ソ、ハバロフスクに近いビロビジャン捕虜収容所に入る。終始伐採事業に従事。昭和22年5月ナホトカより舞鶴に帰還(興安丸)。
   (『シベリヤ俘虜記 抑留俳句選集』小田保 編 昭和60年4月1日 双弓舎)

以下*は、『シベリヤ俘虜記』の作者の随筆を参考にした筆者文。
 
 『シベリヤ俘虜記』(虜囚の詩)から
夕焼けや曠野につづく捕虜の列
 *1945(昭和20)年8月9日ソビエト軍の侵攻を受け、終戦と決まった同年8月15日は、大夕焼けに佳木斯(満州北部)の町は真っ赤に燃えていた。圧倒的な武力の差に屈し、南下移動し始めて、4~5日目武装解除を受け丸腰となった。
 異国の大自然の中で、捕虜となってしまったという思いと日本軍の無力をひときわ感じさせた。夕焼けに染まる広野を歩く捕虜の列は、果てしなく続いていく。自動小銃を持ったソ連兵に監視されながら、ただ歩くのである。               
 『シベリヤ俘虜記』P.18を要約して紹介すると、満州を出て1か月間、汽車に乗っても、歩いても。宿営しても、自動小銃を持ったソ連兵の監視の目にさらされ、今は捕虜であることを自らに言い聞かせながら、ハバロフスクに近いビロビジャンの町の奥にある俘虜収容所に着いたとある。

流星や生きて虜囚の辱め 
 *よく耳にする東条英機陸軍大臣の「戦陣訓」~生きて虜囚の辱めを受けず死して罪過の辱めを受けず。~により、戦地の日本軍は降伏することができない窮状にあった。このことについての天皇陛下は、「陸海軍人ニ賜リタル降伏ニ関スル勅語」を発した。しかし、戦地にあって「陸海軍人ニ賜リタル降伏ニ関スル勅語」を知る由もない兵士たちには、「戦陣訓」が重くのしかかったのであろうし、知ったとしても今まで信じてきた観念をすぐに変えられるわけでもない。 流星を観、秋の近づく気配の北満の地に、捕虜となった身のみじめさを感じるのである。
 「陸海軍人ニ賜リタル降伏ニ関スル勅語」の解釈について、『シベリア抑留未完の悲劇』P.25~26を参照すると以下のとおりである。

 ソ連が参戦し、このまま戦争を続けたら帝国存立の基盤が失われてしまうかもしれない。お前たち軍人の闘志が衰えていないことは分かっているが、国体を維持するため米英ソ、国民党政府との和平を決めた。私の気持ちを十分に理解し、降伏するように。
(『シベリア抑留~未完の悲劇』~栗原俊雄著 岩波新書 2016年2月5日)

罵らるパン盗人やペチカ消ゆ
 *配給のたった一切れの黒パンが盗まれてしまう。気が付くとたちまちパンを盗んだものが罵られている。「ペチカ消ゆ」のが場面の暗転の効果をだしその後の展開を予測させる。

死馬の肉盗み来て食ぶ焚火かな
 *死んだ馬の肉を盗んで来て焚火で焼いて食べた。食べられると思ったものは何でも口にした。
  
一冬の奥地伐採よりラーゲルに帰る
堪へ堪へし命いとしや閑古鳥
 *句からは、一冬の奥地伐採作業を終えて、ラーゲリに戻った安堵感が伝わる。結氷期を耐えに耐えて生き延びた命がいとおしい。季節は初夏となり、あたりには郭公の声が響いている。

 『シベリヤ俘虜記』P.19を要約すると、結氷期が近づき奥地伐採の二十人のグループに加わり、収容所から五キロばかり離れた箱のような小屋をねぐらに作業をするようになったとある。
 このころの句作について、自然に自分の体力を考えながら物を見ることになり、単なる客観ではなく、己の内面を投影することにつながり、句心をかきたてたとある。
極寒の奥地で食事もままならない伐採作業により、追い込まれたぎりぎり の石丸さんを俳句は支えていたのだと筆者は思う。

   雪解けやどれも傾き捕虜の墓
 *石丸さんは、2年をシベリアで過ごしている。厳しい寒さを耐えに耐えてようやく待ちわびた雪解けの季節。凍土を掘った僅かな土と雪で埋め戻し、白樺の木を立てただけの墓は、どれも傾いている。
(つづく)

参考文献
『シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 昭和60年4月1日
『シベリア抑留~未完の悲劇~』栗原俊雄著 岩波新書 2016年2月5日


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