2019年4月12日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~⑨ のどか

第2章‐シベリア抑留俳句を読む

  小田 保さんは、昭和60年に、『シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~(以下『シベリヤ俘虜記』という)』で12人・304句の作品を、平成元年には『続・シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~(以下『続・シベリヤ俘虜記』という)』により欧露における俳句集団のアンソロジーも含め85名・813句の作品をまとめている。本稿では、個人の作品群の中から、それに付された作者の随筆を合わせて紹介して行きたい。   
 『シベリヤ俘虜記』『続・シベリヤ俘虜記』の両方に作品のあるものについては、その両方から句を選抜して鑑賞した。なお、筆者の鑑賞部分には、*マークを付し、引用部分は段落を下げた。
 また、両句集の引用等については、2019年1月小田保さんの御遺族より活用の許可をいただくことができた。
 一般には、「シベリア」と表記される場合が多いが、小田さんの編纂した作品名は、「シベリヤ」と表記されているため、作品名は「シベリヤ」と表記した。

『シベリヤ俘虜記』(厳冬)『続・シベリヤ俘虜記』(タイガ)から
Ⅰ小田 保さんの場合(1)

 北千島の占守島(しゅむとう)・幌筵島(ぱらむしろとう)は、カムチャッカ半島の南端の先にあり千島列島最北の島である。小田さんは幌筵島で終戦を迎え、ナホトカ、ウラジオ・ストク、アルチョームを転々。昭和23年10月信洋丸で舞鶴へ帰還。
 作品の鑑賞の前に、ソ連の千島列島侵攻について要約して触れる。
 昭和20年8月15日夜、ソ連軍はソ連第2極東方面隊と太平洋艦隊に千島諸島占領のための上陸作戦の作成と実行を命令した。8月16日夜、ソ連軍は占守島上陸部隊の出動を開始した。
 千島上陸作戦の狙いは、占守島の上陸により幌筵島、ネオコタン両島の侵攻にあった。(『関東軍壊滅す~ソ連極東軍の戦略秘録~』ソ連邦元帥マリノフスキー著 石黒寛訳 徳間書店 昭和43年4月20日(以下『関東軍壊滅す』と言う)』P.232~234)
 一方、小田さんの手記には、8月15日終戦の勅を聞いた。虚脱と安堵の平和も束の間「ソ連軍侵攻」の情報が電撃のごとく北千島を走った。「赤軍の性格から婦女子はただちに送還すべし」を受電。とある。

 占守に戦車死鬪すとのみ濃霧濃霧(続・シベリヤ俘虜記)
 *『関東軍壊滅す』P.234には、「16日の夜は、静かで、風もなかった。煙が空を覆っていた。霧が次第に濃くなり、これが夜をとくに暗くした。」とある。北千島の小さな占守島を深く濃い海霧が包み込み幌筵島からは、日本のものかソ連のものかも分からぬ砲弾の音が聞こえるばかりである。
 小田さんはのちに、占守島の戦いでソ連人民まで伝わったという池田戦闘隊の健闘について、戦記を借りてでもあらすじを書きたいと思うとして、『シベリヤ俘虜記』P.166に、以下のように記している。(小田さんの引用に於いて、この戦記についての出典は、定かでないことを付け加え、要約を紹介する。)

 カムチャッカ半島の東海岸、ペトロパウロフスクを発ったソ連軍は、18日零時を期して、艦砲射撃の掩護の下に、占守島、竹田浜に上陸を開始した。当面する守備隊・村上大隊はこれを水際でとらえて、いったんは撃破するのであるが、あとからあとから波のように押し寄せてくるソ連軍によって、次第に苦戦に陥ちいっていった。
 濃霧のために主力部隊の来援が遅れる中で、千歳台にあった池田末雄大佐の戦車第11大隊は、村上大隊救護のため決戦場となった、四嶺台に向かって進撃したのである。(略)池田大隊長は、上半身素っ裸になり、白鉢巻をきりりとしめ、砲台に馬乗りになり日章旗を振るった。(略)阿修羅のごとき隊長車もついにはあの独ソ戦において、独軍のタイガー戦車を打ち抜いたソ連軍のロケット砲弾を横腹に受けて炎上し、戦車と運命を共にしたのである。(略)
 そして終戦の日から七日目にして戦いは終わった。北千島守備隊将兵の流血は最小限にとどめられたのである。
 占守島の戦いは、「栄光なき最後の勝利」の言葉が示すように、終戦後の戦争目的を失った戦いであったのだ。
(『シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 昭和60年4月1日)

 一弾だに機関銃撃たず投降す

*昭和20年8月15日終戦の勅旨を聞いた後、小田さん達千島守備隊の日本兵は、8月15日から16日にかけてのソ連軍侵攻の情報を得て、抗戦と邦人保護のために戦った。しかし第五方面軍本部(札幌)からの戦闘停止命令を受けて、兜山山麓に備えた機関銃座から、一弾も抗戦することも無く停戦となる。幌筵島で防衛に備えていた小田さん達千島守備隊は、投降したのである。
 一弾だに機関銃撃たずという表現の中に、ソ連軍の侵攻に、一撃もできなかった無念さが伝わって来る。
 
 声のなき絶唱のあと投降す(続・シベリヤ俘虜記)
*「声のなき絶唱」に無念の叫びが込められているのである。「この島での戦いには勝った。しかし日本は敗れた」
 占守島の激戦を見守りながら幌筵島にあり、一撃も出来なかった無念さ、国をかけた戦に敗れた喪失感に一気に襲われる。小田さん達は、兜山山麓の兵舎を出て、北ノ台飛行場に集結し、武装解除された。この作品の背景として、『シベリヤ俘虜記』P.164~165を要約して紹介する。

 その18日の朝であった。幌筵海峡に大型ソ連駆逐艦三隻があらわれた。わが要塞砲はいっせいに火を噴き、海軍基地、片岡を飛び立った戦闘機数機が、空からくりかえし攻撃を加えた。そのとき見た水柱がいまも私の記憶に生々しい。(略)「白旗を掲げて軍使が、停戦交渉に向かった」という情報が入った。それからいらだたしい長い時間がながれた。武装解除か否かをめぐって紛糾し、交渉は手間取るのであるが、第五方面軍司令部からの指令によりすべては、決まった。終戦の詔がおりてから七日目、占守島の戦いはすべて終わったのである。※第五方面軍司令部(札幌)
(『シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 昭和60年4月1日)

 敗戦にみな焼く万葉集だけ残し(続・シベリヤ俘虜記)
*占守島にソ連が侵攻した時、小田さんは、幌筵島兜山山麓に機関銃座を構築したとあり、守備の先鋒を担っていた。武装解除に備えて、作戦に関する資料も持っていたのかも知れないが、万葉集だけを残しみな焼いたという。この万葉集は、シベリアでの抑留生活を支えた一方、思わぬ運命を呼び込むことに・・・。                          (つづく)

参考文献
『関東軍壊滅す~ソ連極東軍の戦略秘録~』ソ連邦元帥マリノフスキー著  石黒寛訳 徳間書店 昭和43年4月20日

『シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 昭和60年4月1日

『続・シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日

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