2017年9月22日金曜日

【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む11】西村麒麟を私は知らない 原英



★西村麒麟より★
西村麒麟第二句集の情報

文學の森から出る句集名は『鴨』です。自選であること、序文は無いことの他は、どんな句集になるのか本人にもわかっていません、なんせまだ中身を書いていますから。多分、年末頃に出るんじゃないかな、と思っています。(西村麒麟)



 西村麒麟を私は知らない。会ったことも無ければ、もちろん話したこともない。それでも私の目の前に西村麒麟氏の百五十句があるのだ。
 俳句は主語がなくても作者を示していることがほとんどだ。句に触れることは、その人の五感や想いを疑似体験できることだと思う。
 早速、氏の句に触れていきたい。

秋風やここは手ぶらで過ごす場所
 自宅での句だと思われる。外出時には財布、スマホ、ハンカチやティッシュなど様々な物を持たなくてはならない。「手ぶら」という言葉で自宅にいる安心感がでてくる。

向き合つてけふの食事や小鳥来る
 なんと幸せな句であろうか。反芻していると食器の触れ合う音、他愛のない会話、小鳥の囀りなどいろんな音が聞こえてくる。もし私が結婚するようなことがあれば、このような句を妻に送りたい。

初恋の人が来てゐる初詣
 切ない。初詣で初恋の人を見かけたことを句にしてしまうこと自体切ない。

朝食の筍掘りに付き合へよ
 筍は朝採りが良いと聞く。調理にも手間がかかる筍を朝採りで、しかも朝食用にとなると付き合えと言われても即座にハイとは言えない。ただこの句に対しては素直にうんと頷いてしまいそうになる。

大鯰ぽかりと叩きたき顔の
 あほ。と言いながら空想上の鯰を叩いてしまった。句を読んだ瞬間のことだ。もちろん現実には叩いていない。しかし空想上では鯰を叩かずにはおられない魔力を秘めた句だ。

禁酒して詰まらぬ人として端居
 禁酒という行為がダサいと考える人もいる。命あっての物種。健康第一。たまにはそこからはみ出すことも一興だ。

蓑虫の小さき声を聞きにけり
 「ちちよ、ちちよ」だろうか。私には優しい言葉を囁いていたように思われる。

学校のうさぎに嘘を教へけり
 どのような嘘であったのかはもちろん読み手に委ねられている。学校であることから子供、それも小学生ではないかと考えられる。小学生のつく嘘と言えば「好きじゃないよ」だろうか。他にもいろいろ考えられるがどれであっても緩やかに寂しくなる。

呉れるなら猫の写真と冷の酒
 猫であれば写真でいいが、酒は冷酒という実物でなければだめだと言い放っているようだ。確かにうまかったの一言とともに酒の写真を送られたところで返す言葉はない。

 掲句はもちろん一部であり、私の好みでもある。正直ここで全て公開し百五十句の全てを個々の作品として味わうこともできるが、それは大人の事情によりできない。代わりに全体の読後感を述べたいと思う。のんびりとした幸福感だろうか。陰影のためにその他の句が入っていることも見逃せない。

 他の感想としては現代仮名遣いの方が活きる句があるように思った。
 例えば
学校のうさぎに嘘を教へけり
 この句は教えけりだとすると幼さも感じ取られ、今の出来事であると受け取れる。教へけりとすると年配の方の所作に感じる。この句の場合正直どちらであっても面白いと思う。

向き合つてけふの食事や小鳥来る
 旧仮名表記の「けふ」がすでに今日ではない。懐古のニュアンスが生まれているように思う。それでも味わえることは言うまでもないが。

烏の巣けふは烏がゐたりけり
 この句も同様だ。今日は烏がいるのでなく、どこか昔のことを言っているように感じる。

夕立が来さうで来たり走るなり
 来そうで来たという流れが、来さうで来たりとしたことにより緩急がつき、この句は旧仮名が成功しているように思う。

 他にも旧仮名であることをやや疑問に思う句が多々あった。使うならば旧仮名の懐古的なニュアンスを俳句に活かすべきではないだろうか。
 百五十句全体として現仮名か旧仮名に統一する必要があるのだろう。なぜそのような慣習があるのだろうか。旧仮名が似合う句、現かなが似合う句、カタカナが似合う句、英語が似合う句など、句によって表記は変えるべきだと思うのだが如何だろうか。
 表現としておかしいかもしれないが、氏の句は穏やかに光っている。そのような句はなかなかお目にかかれない。その光を旧仮名で縛ってしまっているのは、もったいないと強く思う。
 どのような形であれ氏の句に今後お目にかかれるのを楽しみにしている。

終  


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