2017年9月8日金曜日

【新連載】・前衛から見た子規の覚書(1)子規の死  筑紫磐井



【由来】
虚子の師だからといって、子規を伝統だと言うことはできないだろう。同じ言い方をすれば、碧梧桐の師であるから、子規を新傾向(アバンギャルド)だということも出来そうである。
というより、我々の俳句の常識は虚子以降に固まっていったものであり、子規の時代は想像を絶する奇妙な時代であったのである(或いは我々の現代が奇妙な時代であるのかもしれない)。言ってみれば、子規と我々は別人種に近いところがある。国家、天皇、名誉、民族、宿命、事業、愛国、郷土において、我々には想像できない論理を子規やその周辺は持っていたように思われるのである。
 その意味では伝統でも前衛でもない子規を眺めるに当たって、「前衛から見た子規」というのはいかにも奇妙な表題だが、言いたい趣旨は、伝統も前衛も超越してしまった立場から子規を眺めてみようと言うことなのである。

【本文】
●【子規の病歴と死】
子規は生来虚弱な体質だったようで、顔色がよくなく、胃も弱く、「青瓢箪」というあだ名をつけられていた。運動も嫌いであったというので、大学に入ってから野球に熱中したのは意外であった。
初めて病気が出たのは明治22年5月9日のことで、喀血は自身も周囲をも驚かせた。医師に診させると肺から出ていることが分かったが、この時はまだ医師は「慢性気管支炎」と診断していた。それから1週間にわたって喀血が続き静養をする。快癒後も、痰に血の混じる状態は長く続いた。病気直後の様子は「子規子」の「喀血始末」に詳しい。子規が閻魔大王はじめ地獄の鬼たちに取り調べを受けるという諧謔的なフィクションで書かれている。
この中で、子規自身は喀血の原因を生来の貧血症にあったと思っていた、特に直前の4月の「水戸紀行」の折り、那珂川の船中で腹痛を伴って震慄があったことも原因と考えており、それもこれも貧困に起因すると述べている。この戯文の中で子規は赤鬼の検事に被告(子規)への求刑として「今より10年の生命を与ふれば沢山なり」とし「付加刑は焦熱地獄」と宣言させている。子規がなくなったのは13年後、亡くなる直前の子規の闘病の苦しみを碧梧桐は焦熱地獄に投ぜられたようだと書いており、当たらずと雖も遠からずであった。
 その後も24年の脳病、25年の頭痛やノイローゼなどが続き、日本新聞社に入社しても具合が悪く、陸褐南に紹介された医師宮本仲に以後診断を受けるようになる。28年日清戦争に従軍し、再び大量の喀血をした。軍船であり十分な医療設備もなく、また船内にコレラが発生したため日本に着きながら上陸が禁止されたため、病勢は一層募り神戸病院に入院したときは危篤状態であった。その後の療養で再び活動できるようになるが、その直後腰痛を発生する。
子規の病気は慢性結核で、これから瘍椎骨カリエス(脊椎に結核菌が感染して骨が壊されてゆく症状)を併発していたのであった。このため30年頃からは歩行困難となり、外出は人力車にのって行うしかなくなった。
 以後は毎年、病状が悪化した。32年5月腰痛と発熱が続く。33年8月大量の喀血をし、弟子たちの間から療養のための興津移転案が出されたりする。34年5月腰痛と発熱があり「墨汁一滴」の原稿には自殺をほのめかす文書を書く。特に9月再び襲ってくる苦痛のため絶叫、精神錯乱となり、自殺願望から「仰臥漫録」に「古白曰来(古白曰く、来たれと)」と書き残す。
こうして迎えた最後の年、明治35年の記事を書く。
1月危篤状態、以後虚子、碧梧桐らが交代で看護に当たることとなる
5月に入ってから「病床6尺」を執筆開始するが、13日に大苦痛。
6月~9月しばらく病状が落ち着き、絵筆を取って身辺の素材を対象に「菓物帖」、「草花帖」、「玩具帖」を書く。
『菓物帖』(識語35年6月27日~8月6日)
『草花帖』(識語35年8月1日~8月20日)
『玩具帖(子規は無題)』(識語35年8月22日~9月2日)
 9月8日水腫が発生する。
 9月10日腰部以下運動の自由を失い、子規の言う「拷問」の苦しみを発する。夜、子規の枕頭で子規存命中最後の「蕪村句集講義」を行う。 
 9月11日痛み甚だし。
 9月12日内股に注射を試みると効果有り。「今夜ほど愉快なことはない」と語る。
 9月13日午後より再び痛みを訴え注射する。
 9月14日朝より気分よく虚子に「9月14日の朝」を筆記させる。水腫は股部にも及び一抱えほどに腫れ上がる。
 9月15日終日昏睡。
 9月17日「日本」に「病床6尺」の最終回が掲載される。よそから来た手紙を転載したものであった。この日は陰暦の子規の誕生日に当たるので、赤飯で祝った。

 こうして最後の日を迎える。9月18日朝から具合が悪く、陸夫妻が昼ご飯のおかずを持って見舞っていた。午前10時頃訪れた碧梧桐、妹律に手伝わせて唐紙の貼り付けてある画板を用意させる。子規は碧梧桐から渡された筆を持って字を書き始めた。/は墨継ぎである。

糸瓜咲て/痰のつまりし/仏かな
痰一斗糸瓜の水も/間にあはず
をと(と)ひのへちまの/水も/取らざりき

一句書いては休み一句書いては休み、色紙の中央、左、右に三句を書いた(「と」は後から追加)後、筆を投げ捨てた。子規の指示で虚子を呼ぶことにする。
 午後5時頃苦痛甚だしくモヒ剤を服用し、さらに宮本医師により注射を受け昏睡する。落ち着いたところで、虚子と入れ替わりに碧梧桐は去る。
 午後8時前に目覚め、「牛乳を飲もうか」と言うのでコップ一杯の牛乳を管で飲ませた。
子規「だれだれが来ておいでるのぞな」
律「寒川さんに清さんにお静さん。」
と答えるとすぐ昏睡する。これが最後の会話であった。
その後母八重と妹律で蚊帳を吊り、八重が枕元に残ったが、蚊帳の中をのぞいても別に異常はなかった。午前0時50分頃、唸り声が聞こえたので八重が駆け寄って子規の手を握ってみるとすでに冷たく、額を押さえてみても微温しか感ぜず、一同大騒ぎとなった。医師の診断では四、五日は大丈夫と言われていたので驚きだったようだ。駆けつけた陸夫妻、碧梧桐、虚子で死亡後の措置を決める。夜がほのぼのと明けかけていた。
      *     *
 9月21日田端大龍寺に埋葬する。会葬者150名余。10月6日に子規庵にて七七忌が執り行われた。
 子規没直後から「日本」は追悼記事を掲載。

【執筆後感想】
冒頭大上段に振りかぶったが、私の子規に対する感想は、言ってみれば、明治時代に俳句は滅亡するという立場から出発していると見ているのである(子規の『獺祭書屋俳話』の一番のテーマはここにある)。確かに俳句は現在のところ、一見滅亡してはいないようだが、平成か、来るべき次の元号の時代においてやはり俳句は滅亡すると見るべきなのであろう。我々の師に当たる人々の俳句(あるいは攝津幸彦・田中裕明ぐらいまで)は我々が責任を持って残すかもしれないが、我々自身の俳句は誰も残してくれそうもない。我々の周辺で我々の世代の俳句を残してくれそうな顔ぶれは殆どいないではないか。もちろんそうした我々の俳句を残してくれない後続世代の俳句などは、ますます誰も残してくれないのではないか。これが子規の言う、明治時代に俳句は滅亡するの含意なのだ。
楽天的な伝統は存在するが、楽天的な前衛は存在しない、前衛には悲観しか存在しない。だから、これは正しく前衛的な(メランコリックな)覚書と言うことができる。
    *    *
この連載の第1回は、連載開始の時期が子規の忌日――糸瓜忌に重なるところから、この種の評伝としてはいささか奇異な感じはするが、こうしたメランコリックな連載にふさわしく「子規の死」から始めてみることにする。今まで余りに多くの子規評伝が、子規がいかに生きたかを書いていたので、この連載では、子規がいかに死んだかを考えていたいと思うからだ。生から照らす人生と、死から照らす人生では、評伝もずいぶん違ったものになるはずだ。もちろん連載がうまく繋がるかどうかは分からないが、そうした心がけで第1回目は書いてみた。
今年は根岸子規庵において9月1日(金)~30日(土)の間、正岡子規生誕150年記念特別展示が行われており、新出の明治34年「歳旦帖」が展示されるという。せっせと毎年歳旦帖を刊行している(「俳句新空間」の)我々としては無関心とも行かないだろう。機会があれば是非訪問していただきたい。
(この連載は、8年ほど前に書いた準備稿を使っているので、現在、出典をすべて確認するいとまがない。間違いはないものと思うが、後日の修正もあり得ると言うことで覚書(メモワール)とさせていただく。)


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