2017年8月25日金曜日

【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む9】見えてくること、走らされること 田島健一



 俳句を「読む」ことは不思議だ。簡単なようで、簡単ではない。つい、目の前にならんだ作品から統一された作者の意図を読み取ろうとしたり、その顕在内容を分析しすぎて、作者が現実的に書いてしまったものを見落としてしまう。
 俳句を「読む」ということは、作品の顕在内容を復号化することで、その潜在的な内容を見つけ出す行為に他ならないのだが、つい見えやすいところだけを見てしまい、作者のつくった見かけに騙されてしまう。何か奥行きがあるように見える、「読み」の入り口らしき場所は、読者をミスリードする。

 月下美人学生服のまま見たり

 西村麒麟の「思ひ出帳」150句はこの句から始まる。この作品を一読して誰もが気づくのが「見る」という動詞の多さである。この「月下美人」の句を皮切りに、

 日射病畝だけ見えてゐたりけり
 冬の日や東寺がいつも端に見え
 金沢の雪解け水を見て帰る
 盆棚の桃をうすうす見てゐたり
 蟷螂枯る草木の露を見上げつつ
 秋風や一日湖を好きに見て
 栃木かな春の焚火を七つ見て


など「見る」という動詞が多用される。これらはおそらく「読み」のトラップである。これら「見る」を総合的に分析した先に、作者のポジティブな主体は現れない。なぜなら、これらは作者が意図的に並べた顕在内容だからである。
 注目するべきはこれら「見る」に寄りそう、副詞・動詞・名詞たちである。

だけ/いつも/帰る/うすうす/つつ/好きに/七つ。

 これらの言葉たちは「見る」の動詞の傍らで「見る」という語の強度を表現する。それによって「見る」の強度は、それぞれにそれぞれの程度で作者の支配下に置かれる。その支配下で、作者にとっての「見る」はあくまでも限定的な働きに留まろうとする。ここには作者の「見る」ことの美学が顕れているのだ。逆に言えば、そのような作者自身の支配の外に作者の意図する「見る」行為は基本的にはない。「見なければならないものを見る」ことや、何かを「見てしまう」ということは、作者の「見る」美学の外にあるのだ。

 金沢の見るべきは見て燗熱し

 この句のように「見るべき」と作者自身が判断したものを「見る」ことが、作者自身にとっての「見ることの美」なのである。しかし既に述べたように、それはあくまでも作品の顕在内容にすぎない。作者の意図を離れて「見てしまったもの」に注目しなければならない。作者の支配下にない視線。それは例えば次の一句である。

 天牛の巨大に見えてきて離す

 彼はなぜ「離」したのか。それは「見えて」しまったからである。この瞬間、「見る」という行為が、作者の統制下をあふれ出てしている。この「離す」という動詞は、「見えてきて」という動詞の強度を補足するために寄り添っているのではなく、「見えてきて」に反発するように、つい手「離」してしまったのだ。
 見方を変えれば、この「天牛の」の1句の驚きために、それ以外の抑制された「見る」句があると言えるのではないか。 この「驚き」に出会うまで、作者は「見る」という行為を横移動する。その横移動の運動へと作者を駆り立てるのは、おそらく「倦む日常」ではないだろうか。俳句はそこにある。しかし、どこか俳句表現そのものをもてあましている。それがよくわかるのが、数多く登場する「反復表現」である。

 白鳥の看板があり白鳥来
 烏の巣けふは烏がゐたりけり
 蜘蛛の巣に蜘蛛より大きものばかり
 烏の巣烏がとんと収まりぬ
 白玉にひたと触れゐて白玉よ
 鈴虫は鈴虫を踏み茄子を踏み


 これらの反復表現は前述の「見る」の多用と同じく、「思ひ出帳」150句を一読してすぐに目に付く表現的偏りである。ここで問いかけるべきは、「これらの反復表現が何なのか」ではなく、「これらの反復表現は何故なのか」である。既に「見る」の件でも述べたとおり、「倦む日常」の横移動が続いているのである。

 通常、「反復表現」では最初の語と、反復された語の間に差異が生まれ、その差異によって見えている以上のものが浮かび上がる。最初の語と反復された語の間には少なからず時間的な変化が生まれ、それゆえに反復する意味が生まれる。
 しかし、「思ひ出帳」に登場する反復表現は、むしろそうした時間的差異を許さない。最初の語が予測したとおりに、世界は反復されるのだ。「白鳥の看板」があれば、そこには期待通り「白鳥」が来る、「烏の巣」には当然のように「烏」がいる。「蜘蛛の巣」にかかった「大きもの」は、正しく「蜘蛛」と比較される。

 鷽替へて鷽を愛しく思ひけり

 あるべきところにあるべきものがあるということが「愛しく」肯定される。ここにも「見る」の時と同じ様に、作者の「美学」が顕れているのだ。しかしすでに述べたとおり、「見えやすい」ものは、本当の入り口ではない。「見えすぎる」ものは、ポジティブに構成された主体ではない。
 見落としてはならないのは、「思ひ出帳」に登場するこれらの反復表現が150句という連作の中でさらに「反復」されるその「仕方」だ。

 烏の巣けふは烏がゐたりけり
 蜘蛛の巣に蜘蛛より大きものばかり
 烏の巣烏がとんと収まりぬ
 白玉にひたと触れゐて白玉よ


 例えば、これらの句は間に6~7句置いて作品上に登場する。一見、無造作に置かれている句の並びだが、数多い「反復表現」は必ず「間をおいて」表れる。例えば

 朝寝から覚めて疊の大広間
 朝食の筍掘りに付き合へよ


 太陽の大きな土佐や遍路笠
 遍路笠室戸は月を高く揚げ
 遍路笠鈴に心を守られて


 朝鮮の白き山河や冷し酒
 秋の昼石が山河に見えるまで


 盆棚の桃をうすうす見てゐたり
 盆唄に絶頂のあり佃島


 少しづつ人を愛する金魚かな
 墓石は金魚の墓に重からん
 金魚死後だらだらとある暑さかな


 これらの句は、同じ主題を詠んだものとして並べて置かれていることは明らかだ。同じ主題を詠んだ句が並べて置かれる。この並び順には当然そのような作者の意図を読み取るわけだが、逆に、似たような表現が多く登場するにもかかわらず、それらが「間をおいて」並んでいることを、つい我々は「無造作」な並び順だと感じてしまう。

 多くある「見る」を使った句と同様、「反復表現」の句も必ず「間をおいて」並べられている。同じ主題を詠んだ句が、「同じ主題を詠んだこと」が「見えやすい」ように並べてあることを考えれば、「間をおいて」並んでいる「見る」句/「反復表現」の句は、逆にそのような表現的傾向が「見えにくい」ように置かれているとは考えられないか。そして「見えやすい」ものがポジティブに構成された主体でないのであれば、「見えにくい」ものこそが、作者の隠された主体性を表現しているのではないか。おそらく、句の並び順を考えるときに、これらの似通った表現方法の句はできるだけ連続せず離れて置くように、配慮されたのではないだろうか。

 すでに「見る」の句で見たように、作者は「天牛」の句に到達するまで、多くの「倦む日常」を横移動しているわけだが、「見る」句が「間をおいて」置かれていることで、その横移動が「見えにくい」ものとされている。それは、何故か。言うまでもなく、「天牛」の句との「出会い」をあたかも偶然のように装うためだ。
 中学生が好きな異性の通学路でまちぶせしながら、いざその相手が現れると、それがいかにも偶然であったかのように装ってしまう。同じように、「思ひ出帳」150句では、「天牛」の句がもつ「驚き」に出会うために、「倦む日常」を横移動しているという事実は、「見る」という似た構造をもった句が「間をおいて」置かれることで、それが偶然であるかのように作者はふるまう。それが作者の「意図したもの」であったことが「隠されている」のだ。

 では、「反復表現」が「間をおいて」置かれていることは、いったい何を隠しているのだろうか。

 すでに述べたとおり、これらの「反復表現」は「あるべきところにあるべきものがある」ことの肯定、そしてそれが作者の「美学」であることを表している。この「美学」は、作者にとっての「現実」というよりもむしろ一種の「仮想現実」であって、「世界はそのようにできている」というよりも「世界はそのようであるはずだ」という一種のイデオロギーである。言い換えれば、作者の「美学」はある限定された状況においてのみ成立する。
 そしてそのことを、作者自身は感じとっている。
 ゆえに、作者のイデオロギーとして「世界はそのようであるはずだ」というメッセージをのせて反復される。しかし、それはある「限定された状況」であることを作者自身が感じとっているため、作者の思想は薄めたかたちで、つまり「偶然を装い」ながら「間をおいて」作中に並べられたのである。
 では、ここで作者が感じ取っている「限定された状況」とは何か。それは、次の句から読み取れる。

 夕立が来さうで来たり走るなり

 ここでは「来る」という動詞が反復される。言うまでもなく、そこには「あるべきところ(夕立が来さう)に、あるべきもの(夕立)が、ある(来たり)」という姿をしている。しかし、この句が例えば

 烏の巣けふは烏がゐたりけり

 などと決定的に異なるのは、下五の「走るなり」だ。もし「烏の巣」句と同じように「夕立」の句を構成するなら、例えば

 夕立が来さうでつひに来たりけり

でよいのである。

 夕立が来さうで来たり走るなり

は中七に切れがあり、その前後で主語が変化する。「夕立が来さうで来たり」の主語は「夕立」、「走るなり」の主語は明記されていないが「作中主体(作者自身)」である。つまり、作者にとって「そのようであるはず」の世界は、そこに作者自身が主体的に関わった途端、走り出さねばならなくということなのだ。
 言い換えれば、世界は「あるべきところにあるべきものがある」というかたちで、正しく美しく規則的に構成されている。ただし、それは「私」が世界に含まれない、という「限定された状況」でのみ成立する。しかし、現実の世界は「私」を含みこんで成り立っている。「私」がその世界に含まれるということは、そこで私自身の意図に関わらず「走らされて」しまう、ということだ。
 正しく美しい日常世界は、主体的な「私」の中に勝手に大量に流れ込んできて、私を私のままに捨て置いてはくれない。
「夕立」の句における「走るなり」は、さきほどの「天牛」の句の「離す」にも通じる。

 天牛の巨大に見えてきて離す

あらためて言うまでもなく、

 天牛の巨大に見えてきたりけり

ではないのだ。「離す」によって主体は世界と関わる。「見てきて」と「離す」の間には、主体の世界との関わり方について大きな断絶があるのだ。そして、それこそが「反復表現」が「間をおいて」並べられたことによって、作者の「美学」の裏側に隠し置かれた作者自身の「現実」の問題なのである。

 西村麒麟の「思ひ出帳」150句は予定調和された、ひとつの傾向に彩られたフラットな作品では、決して無い。この作品から、作者自身が「何者」であるかを決められるような、静まりかえった作品ではないのだ。作者自身は、自分の「美学」と「現実」のあいだで行きづまり、うろつき、ときおり「走らされ」ながら、作者自身の世界にわずかな変化をもたらしつつある。 「あるべきところにあるべきものがある」という作者の「美学」が内包する、作者自身が「走らされる現実」が、いままさに作者自身の思いもかけない「驚き」へと抜け出るための、新しい方法へ繋がってゆく予兆なのではないだろうか。


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