近現代俳句で「かっこいい」と仰がれたのは、例えば劇薬のように激しく、全身を青白い炎で彩る自我に満ちた作品だった。
枯園に向ひて硬きカラァ嵌む 山口 誓子
零の中 爪立ちをして哭いてゐる 富澤赤黄男
虚ろなまでに自意識に満ちた誓子句、あるいは人間の実存を抉るかのような赤黄男句は、なるほど「近代」の金字塔に違いない。
次のような句も、史上の傑作と称えられたものだ。
雪解川名山削る響かな 前田 普羅
極寒の塵もとゞめず巌ふすま 飯田 蛇笏
身震いするほどの威容を備えた自然と対峙するような、作者のはりつめた精神の高揚感。それは、連句から独立して十七音のみで屹立せんとした近代俳句を高らかに宣言した逸品であった。
「近代」に彩られた彼らが手を伸ばし、捕らえようとしたのは、例えば次のような光景だったのかもしれない。
架空線は相変鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。(芥川龍之介「或阿呆の一生」)
俳人たちの眼には「鋭い火花」が燃えさかり、その火花を一句に宿らせるのがあるべき姿と信じられ、おびただしい実践と失敗が積み重なった末に錬金術のような絶品が生まれた時代が、かつてあったのだ。
しかし、平成期の西村麒麟氏はもはや「紫色の火花」を一句に招こうとは考えていない。
というより、火花を素手で掴むには彼はすでに冷静で、自身の丈が分かっているのだし、何より「俳句」を壊すほどの「火花」は不要である。
面倒で厄介なことなど実社会にいくらもある、そんなことより「俳句」に浸る時ぐらいは「俳句」であり続けたいものだ……それが逃避とともに強い意志として成り立っている、つまり俳人としての価値観になっているところに麒麟氏の独特な佇まいがある。
*
西村麒麟氏の作品における「私」の表出は、鋭くはない。柔らかい屈折の末に漂う雰囲気の如きものとして、しかし明確に表現される。それは今回の北斗賞受賞作でも同様だ。
草相撲代りに行つて負けにけり 麒麟
冬の雲会社に行かず遠出せず
(「思ひ出帳」より、以下同)
「草相撲」に代わりとして出場しつつも、勝てずに負けてしまう「私」。あるいは会社を休むとせずに「行かず」とした上で、しかし遠出もせずに過ごした「私」の頭上には、輪郭を露わにした夏の雲でなく、淡く微妙な「冬の雲」が漂っている。
明暗が画然と区切られた世界像でなく、「私」が「私」である瞬間を鋭利に切り取るのでもなく、グレーゾーンが曖昧に広がりつつある中に「私」が居ることを、「負けにけり」「行かず遠出せず」と陰翳を帯びた措辞で醸成させようとしたかに感じられる。
加えて、「~敗北す」云々でなく「~負けに『けり』」と整えることで道化じみたユーモアが詠嘆まじりに漂うことに、そして「~行かず遠出せず」と軽快なリズムを醸すことでとぼけた調子が漂うことに、氏は意識的だ。
烏の巣けふは烏がゐたりけり 麒麟
秋風やここは手ぶらで過ごす場所
「けふは」には「今日以外の「烏の巣」には烏がいなかった」ことを知る「私」が、また「ここは」には「ここ以外は手ぶらで過ごせない場所が広がっている」ことを実感する「私」の存在が強く感じられる。
同時に、一句は深刻な内容や鋭い認識や観察を刺激的に謳うわけではなく、日常の些事に近い、無内容ともいえる出来事が詠まれたに過ぎない。
ゆえに「けふ『は』」「ここ『は』」といった「私」の強い判断は、ある種のとぼけた調子によって角が取れ、「私」は何かしら奥歯に物の挟まったような存在として一句の余情に流れこみ、灰色がかった曖昧さで漂うことになる。
この点、先ほどの「無内容」というのは、往時の「写生」的なまなざしと異なっていよう。
例えば、「川を見るバナナの皮は手より落ち 高浜虚子」といった現実の偶然性にあえて注目し、その無意味さを興がるまなざしは麒麟氏の作品に現れない。
また、「昼顔や蘂のまはりのうすぼこり 大木あまり」のように事物の微細な襞を把握するまでに対象に迫るまなざしも、麒麟氏の句には見当たらない。
氏の句群における「私」はむしろ「俳句」という器に言葉を盛り、一句を整える中で語順やリズムが発生すること自体を愉しむとともに、「俳句」が引きずる俳句史の面影をまといつつ「私」の体験を打ち出す傾向があろう。
獅子舞が縦に暴れてゐるところ 麒麟
烏の巣烏がとんと収まりぬ
例えば、波多野爽波が「鳥の巣に鳥が入つてゆくところ」と詠んだ面影を手繰りよせつつ、またそれゆえに作品上で「縦に暴れてゐる」「とんと」と興がることができることを愉しみ、確認している「私」がいる。
同時に、「縦に暴れてゐる」ことや「烏がとんと収まりぬ」と実際に体験したのであろう臨場感も漂っており、つまり言葉の世界のみで戯れるのでなく、かといって実体験の生々しい迫力で句を成り立たせるのでもない、両者が何となく混じり、緩やかに絡みつつ定型内に張りきって安らっているところに麒麟氏の特徴の一つがあろう。
俳句史の面影云々でいえば、次のような句にも見られる。
白鳥の看板があり白鳥来 麒麟
一人来てそのまま一人菊供養
いわゆる「近代」俳句的な感覚からすると、上五から次へと読み進める際に何かしら刺激的な取り合わせを期待したくなるが、麒麟氏は肩すかしをくらわせるように「白鳥来」「そのまま一人」と続けて一句を終わらせてしまうのだ。
ところで、いささか無造作に「近代」なる感性を使用してきたが、近代俳人の中で麒麟氏の後ろに佇む人士といえば、相生垣瓜人であろうか。
一枚の冬田を過り惜しみをり 瓜人
恰もよし牛を椿と共に見る
隙間風その数条を熟知せり
楽しげに柚子と湯浴みを共にせり
子規忌にも一葉忌にも角力見し
世間の面倒事や濃密な人間関係、また自身の浮沈や心情の吐露云々といったものはなく、また天馬空を駆けるごときの詩情や鮮烈なヴィジョンを打ち出すのでもない、他者を注意深く遠ざけた上で韜晦じみた風雅を嘯く「私」が飄々と姿と見せている。
麒麟氏の「俳句」のありようはこの瓜人にやや近く、同時に瓜人以上に「俳諧」への憧れを素直に打ち出すところに、なかなか平成的な風雅のありようが感じられる。
ただ、留意すべきは、麒麟氏の目指す「俳諧」像とは芭蕉や蕪村、一茶よりも、次のような句群をイメージすべきだろう。
手枕のしびれさすりて団扇かな 九起
盗ませる葱もつくりて後の月 香以
向日葵やそれ相応の昼の露 同
茶をのみに隣までゆく袷かな 香雲
鶯やだまつて通る豆腐売り 湖水
何事も明日なり蚊帳に入るからは 梅裡
ゆつたりとうしろ夜のある牡丹かな 梅理
鉋屑へらへら燃えて春浅し 萩郎
彼らは江戸後期から幕末、明治初期に活躍した俳諧宗匠たちで、後に正岡子規に「月並宗匠」と否定された人々だ。
麒麟氏の「俳諧」的な志向を理解する時、上記の中でも特に香雲や梅裡句のようなユルさをイメージした方がよいのかもしれない。
同時に、明治初期にこのような句群を詠み続け、俳諧師として収入を得ていた宗匠たちと、平成年間に彼らのようなユルさを意識的に仮構しようとする麒麟氏の認識とは、様相がかなり異なっている。
多くの若者が「鋭い火花」を目指し、刺激的で目立つ趣向や表現を獲得しようとする中、氏は早い段階から上記のような意味でのユルさを心がけてきた。それは今回の受賞句群でものびのびと展開されている。
太陽の大きな土佐や遍路笠 麒麟
目が回るほどに大きな黄菊かな
山椒魚そろそろ月の出る頃か
電球の音がちりちり蚊帳の上
夕立が来さうで来たり走るなり
これら意識的なユルさと氏の俳句愛はおそらく重なっており、そこに西村麒麟という俳人の独特さがある。
その俳句愛とは「俳句」に浸るというより、「俳諧じみた俳句に浸る」という行為に浸る、といえばいいだろうか。あるいは、次のようにいいかえてもよいかもしれない。
社会の煩わしさから逃れるために、あるいはその煩わしさとさりげなく対峙するために、麒麟氏は実社会への柔らかい抵抗と「俳句」へのゆるやかな没入とを試みる。
無論、その時は様々な存念や屈託を抱えた「私」を明瞭にしつつも、韜晦じみた柔らかさでユーモアとペーソスをまとわせることに氏はやぶさかでない。
みかん剥く二つ目はより完璧に 麒麟
勢ひがまづは大切飾海老
学校のうさぎに嘘を教へけり
これらの句に漂う微量のペーソスには、「俳句」の外に弾き出された「私」が残余のように彷徨うかのようだ。
その「私」を飼い慣らしつつ「俳句」に浸ろうとする際、季語はいきいきと「私」を「俳句」の入口へいざない、俗世を何気なく遮断しつつ「俳句」の世界へと深く没入させるだろう。
妻留守の半日ほどや金魚玉 麒麟
端居して平家の魂と苦労話
金沢の見るべきは見て燗熱し
鯖鮓や机上をざつと片付けて
これらの句群に漂う祝祭への予感と微かな終焉の先取りが何によってもたらされているか、麒麟氏は明確に意識している。全ては「俳句」からの恩寵であることを、氏は熟知しているのだ。
「俳句」の恩寵に意識的であることは、「俳句」に安住することと同義ではない。明治初期の宗匠たちは「俳句らしさ」に安住した俳人だったが、平成期の麒麟氏は汗水垂らして俳句らしさを準備しつつ、「俳句」に何事か恩寵が到来するのを待ち受けているのだ。
微妙に右往左往しながらこの世を生きる「私」をネタにしつつ、ほどよい距離でとぼけたユーモアとひそやかなペーソスを漂わせて一句に昇華しようとするも、やはり拭い去ることのできない「この私」と生涯付き合っていかねばならないことを受け入れようとするひそやかな照れと、やはりそんな「私」が好きだったりすることの表明、そしてそれらをほどよいバランスで示してくれる、俳句という詩型と先人の句群への愛。
そこに「紫色の火花」(芥川)のような鮮烈さはないが(というより不要)、なかなか腰の据わった信念であり、数多の試行錯誤を経て自身の頭で考え、自らの肌で実感せねばな確信を抱きえない種類の愛であろう。
同時に、現代においてそれを実践するとなれば、「火花」を希求し続ける俳人への強烈かつ冷ややかなアンチとなるはずだ。
このように思いを巡らせた時、次のような句は彼らしい存念に満ちた、かっこいいネオ「俳句」といえる。特に上五のとぼけた味わいからは、氏の腰の据え方が感じられよう。
鯖かなと柿の葉寿司を開きをり 麒麟
*
ネットサイトの文章としてはいささか長くなった。最後に、麒麟氏の第一句集『鶉』を紹介した拙文(「現代詩手帖」俳句月評欄)を掲げつつ、このあたりで筆を擱きたい。
“かつての「あんかるわ」を読むと、「昭和」が文字通り遠くなったことがしみじみと感じられる。
例えば、第二号(昭和三十七年十月)の後記(北川透)を見てみよう。
「一九六〇年以降の重苦しい固定した時間のなかにいて、自分を失わないでいることは、大変なことである。どこかを突き動かし、どこかを破ろうとすれば、おびただしい血を流さねばならない。
動かないで、口を閉じていれば、化石のような存在になってしまう。動乱の時期には何かに身をゆだねることで、自分を守ることができるかも知れないが、固定した日常性の壁の厚みのなかでは、どのような権威を身にまとってみようとも、何ら、自らを証することはできない。
このような時には、精神の鎖国制度を打破するために執拗な努力を重ねる以外ないであろう。
ぼくらが、今、表現に執着する意味の主な一つは、そこにある。ぼくらはしたたか傷つかねばならない」。
戦後という間延びした「日常」に埋もれることなく「自分を失わないでいる」ためには血を流し、傷付きつつ努力を続けることで「精神の鎖国制度」を打破するしかないと拳を握りしめる姿は、平成年間においては郷愁とともに現れる幻影に近くなった。
崩落のはるかな響きを聞き届けつつ無表情に小さなディスプレイをタップし続ける私たちは、むしろ「固定した日常性」と「鎖国」に浸りつつ甘やかで索漠とした快楽に身を委ねるのみだ。
しかし、それは忌避すべきことなのだろうか。
私たちは天才ではありえない。取るにたらない喜びや不満を味わいつつ、小さな幸せや不幸せが交互に訪れる市井の日々を何とか生きる他ない凡人がささやかに何かを表現したいと願った時、慈しむべき詩形として昔から連綿と愛でられたのは俳句であった。
この「鎖国」(北村)としての俳句を愛する俳人といえば、西村麒麟(一九八三~)であろう。
結社「古志」に入会し(長谷川櫂主宰時代)、若手俳人の登竜門といえる石田波郷新人賞や田中裕明賞等を受賞した彼の作風は、暮らしの平凡さを慈しみつつ飄々とした俳諧味を漂わせており、第一句集『鶉』(私家版、二〇一四)には次のような句が散見される。
絵が好きで一人が好きや鳳仙花 麒麟
手をついて針よと探す冬至かな
絵屏風に田畑があつて良き暮らし
雨もまた良しうなぎ屋の二階より
少なくともこれらの句に「血」や「傷」は姿を見せず、市井の暮らしに自足する姿が柔らかい諧謔味とともに示されるのみだ。
美しく菊咲かせたりだんご屋に 麒麟
秋惜しむ贔屓の店を増やしつつ
来なければ気になる猫や暮の秋
春風や一本の旗高らかに (以上、『鶉』)
これらの句には平々凡々たる暮らしぶりのみ強調されているが、それは西村のさりげない信念でもある。
文学に携わるひとときぐらいは「血」や「傷」を忘れたい、伸びやかで屈託のない日常を背伸びせずに味わいたいものだ……それを衒いなく主張し、しかも評価されるところに西村麒麟の本領があろう。それもまた、平成文学の姿に他なるまい。
嫁がゐて四月で全く言ふ事無し 麒麟 (『鶉』) ”
(青木亮人「古き良き「月並」」、「現代詩手帖」2015年2月号)
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