2017年4月16日日曜日

【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む 0】 序にかえて / 筑紫磐井



西村麒麟が田中裕明賞に次いで、文學の森の北斗賞を受賞した。

北斗賞は不思議な賞で受賞後に句集を出版してくれる、受賞者にとってありがたい賞なのだが、句集が出版されるまではどのような作品が受賞したのか全く分からない。受賞作品を読んだのは選者ばかりなので、その選考結果によりうっすらとイメージを想像できるが、どんな素晴らしい作品かわからないのである。

そこで、西村麒麟に作品150句を提供してもらって受賞を祝する鑑賞を掲載しようというものである。

多くの若手世代を輩出した『新撰21』だが、はっきり言って、麒麟にとって、『新撰21』はネガティブな意味で刺激になっている。

自分と同世代が、『新撰21』『超新撰21』『俳句なう』で麒麟を追い抜くように次々登場し、マスコミに取り上げられているのを鬱屈した思いで眺めていたと語っている。
(優れている人とそうでない人との違いと別に)光が当たる人と当たらない人が出てくることはやむを得ないことだと割り切っているが、『新撰21』のそうした功罪は間違いなくあるのであり、その責任の一端は私や高山にある。そうした問題に忸怩たるものを感ずるところがあったから、高山れおなは乗り気でなかったのも関わらず、『新撰21』のあとの『超新撰21』の刊行には、自己負担があるにもかかわらず私は賛成したのである。しかしこれは、ごく小さな自己満足にすぎないかもしれない。

逆説的なのだが、『新撰21』が出たために俳句をやめた若手もいたかもしれないし、間違いなく西村麒麟はそれを逆境と感じたのである。

しかし私はこんな風にも感じている。天才は、我々が手を貸してやる必要などない。どんな悪環境だろうと、そこから伸びだしてしまうからこそ天才だろう。手を貸すというのはむしろ天才の邪魔をする悪魔の手立てだと思っている。その意味では、『新撰21』が出た悪環境の中で『新撰21』と無関係に登場し、脚光を浴びることこそ天才の一つの証拠だと思う。御中虫と西村麒麟はそんな存在だろうと思う。

何しろ句集を出しても、田中裕明賞を受賞しても、北斗賞を受賞しても彼の属している結社は、特集も、お祝いもしてくれないらしいのである。これは彼の属している結社を批判しているのではない。小さな賞を取ったからと言って手のひらを反すような厚遇をする結社に比べれば見識のある結社というべきだろう。

さはさりながら、『新撰21』で鬱屈している麒麟が、田中裕明賞を受賞しても、北斗賞を受賞しても鬱屈しているのは今後の成長のためにもいいことだが、「俳句新空間」としては少しおせっかいをしてみることとした。その第1句集に長大な特集をしたように、今回の受賞でも特集を組んでみようというのである。
豈も俳句新空間も、世に恵まれない天才たちのためにある雑誌である。雑草のように踏み虐げられている草こそ我々の花園に咲くのがふさわしい。今回またシリーズで西村麒麟特集を送るゆえんである。

西村麒麟北斗賞受賞評論公募!

高邁な理想から始めた連載であるが、西村麒麟も私と同様あまり友達が多くないらしい。

第1句集の特集と、今回の特集でほぼ友人リストを使い切ってしまったようだ。本人の希望もあり、公募という不思議な方式を取ることとした。

本BLOGの読者の中で、西村麒麟論を書いてみたいという方は、本BLOGの編集部ないし西村麒麟自身にご連絡を頂きたい。未公開の150句をお送りするので読んだうえ評論を送っていただければありがたい。

もちろん読んだうえであまり大したことがないということで中止しても差し支えない。
これを御縁に西村麒麟とのネットワークに参加していただきたいと思う。


                         筑紫磐井


編集部アドレス:  sengohaiku@gmail.com





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