2023年9月8日金曜日

英国Haiku便り[in Japan] (39) 小野裕三

世界は兜太を待っている

 俳誌『豈』から、金子兜太をテーマに文章を依頼された。そこで、以前から兜太を含む現代俳人がどう海外で受け止められているかが気になっていたので、最近知り合ったインド在住のインド人の俳人(Geethanjali Rajanさん)にeメールで質問をしてみた。回答の詳細は『豈』(65号、「兜太の世界戦略」)に譲るが、まさに目から鱗だった。

 そもそも、英語圏でhaikuが語られる時、もっぱら触れられるのは芭蕉で、あとは蕪村や一茶が少々。僕の印象では、それ以外によく言及されるはむしろ少なくとも欧米においては西洋の詩人であるジャック・ケルアックだ。まるで、英語圏の俳句が芭蕉とケルアックという二つの柱から成り立つかのように思えた。

 そして、そのインド人の彼女と会話して気づいたのは、明治から現代に至る俳人の情報が英語圏では極端に少ないという事実が背景にあることだ。芭蕉、一茶、蕪村、子規、が〝四大俳人〟のように英語圏では流通すると彼女は言う。山頭火などの少ない例外を除き、二十世紀を彩った俳人たちはほとんど知られていないようだ。

 そんな情報の乏しい中でも、彼女は兜太のことをネットの英語情報を中心に調べて、それなりに正確に理解していた。そんな彼女は言う。

「欧米でもインドでも、英語で俳句が書かれるところでは、伝統的な季語をベースにした巨匠たちの古い俳句に倣うか、あるいは三行や一行の自由詩のような詩を書きそれを俳句と呼んでとても現代的だと考えるか、のどちらかです。前衛俳句運動、あるいは現代俳人による伝統的な季語を使った俳句などの現代の動きについては情報が少ないので、俳句の精神や真理は必ずしも理解されていません。」

 僕が、英語俳句は極論すると芭蕉(「巨匠の古い俳句」)とケルアック(「自由詩のような詩」)から成ると感じたのはあながち間違いでもなく、つまりケルアックのような天才詩人が芭蕉から本能的に嗅ぎ取ったものが「型」のひとつとなって英語俳句の進展を支えてきた。

 そのこと自体は決して悪くない。だが問題は、その英語俳句の歴史に、新興俳句、前衛俳句・社会性俳句、一方で現代における伝統派俳句、といった流れが化学反応として何も組み込まれていないことだ。彼女はこうも言う。

「日本の近代そして現代の俳句の翻訳がもっと出てくることを望みます。そうしないと、俳句は生き生きとしたダイナミックな詩として世界から理解されないでしょう。」

 世界のhaikuは、まだ見ぬ化学反応の要素として、日本の現代俳句のことをもっと知りたがっている。まさに世界は兜太を筆頭とする現代俳人たちの句業の紹介を待っているのだ。

※写真はKate Paulさん提供

(『海原』2022年11月号より転載)