帯には「ゆらぐ青春」とある。
本書はふたりの歌人、木下龍也・岡野大嗣の共著で、全編が短歌で編まれているので「歌集」といっていいのだろうか。もうひとつ帯に、「男子高校生ふたりの七日間をふたりの歌人が短歌で描いた物語、二一七首のミステリー」とある。歌物語というのもなにか違う気がするが、とにかくこの本は「ふたりでひとつの短歌作品を作った」ものになる。
幾人かの作品を収録したアンソロジーでもなく、ふたりが個々に作った作品を持ち寄ったのでもない。ページ二首組みのレイアウト、作者の別は歌の頭の位置で判別する。天付きなのが木下、二字下げが岡野。
こうした「合作」のような短歌作品はわりあい珍しい。過去には穂村弘・東直子の「回転ドアは、順番に」がある(与謝野晶子・山川登美子・増田雅子の「恋衣」は共著であり合作ではない)。「回転ドア—」の作者の別は文字色で分けられていた。頭の位置で区別する、というのは簡潔でよいなと思った。
7月1日からいちにちずつ、日付が章題となっており、7日が4日の前に来て、6日で終わる、七章構成になっている。この作品はミステリーと題されているが、ト書きが歌になっているわけではないので、ふたりの高校生の内省やモノローグ、状況描写みたいなもの(として書かれた歌)から事件を推測して読むことになる。
主人公(といっていいのか、歌人が主格として扱っている人物)ふたりはどうやら友人のようで、お互いをパーソナルスペースに立ち入らせるほどに大事に思っている、らしい。部分的にはBLのように読むことも可能に思えたが、それは主題ではなさそうだ。
公園でたまに見かけるおじさんよ昨日の夢で殺してごめん(木下)
なんつうかまああれだなあ信長はよくあと三十年も生きたな(岡野)
ぼくはまたひかりのほうへ走りだすあのかみなりに当たりたくって(木下)
目のまえを過ぎゆく人のそれぞれに続きがあることのおそろしさ(岡野)
全編が生にたいする倦みと停滞感、刹那主義的な死生観に彩られ、しかしそれがかえって青春ぽく見えてしまう、といったら軽視しているみたいに聞こえてしまいそうだ。そうではなくて、毎日「死にたい死にたい」と言いながら生きながらえてしまう——というような、「緩慢に生き残っている」状況をも冷静に、確実に、さっくり掬いあげ、歌にしている。48歳で落命した信長を引き合いに出したり、雷に打たれたいと願う、その途方もなさは、無力感の裏返しとして、実にくっきりとした輪郭をもっている。輪郭のはっきりした無力感なんて、地獄のようではないか。
どう書いてもネタバレになってしまいそうだが、章の順序が日付通りでないことにはたぶん意味がある。その意味を想像してみて、悲しさを感じたら、たぶんあなたの読後感は私のそれと似ている。
ふたりは7月7日に来てほしくなかったのだ。6日のままでいたかった。その理由は、読んでいくと、うっすらわかると思う。
玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ(岡野)
この歌は本の題名であり、99ページの、7月5日の章の巻頭歌である。玄関の覗き穴から差してくる光、とは、マンション、アパートなどのドアが思い浮かべられる。硝子が嵌められた引き戸など、玄関そのものが明るい場所では(仮に覗き穴があったとして)、穴から「光が差して」くるほどの明暗の落差がないからだ。
室内が暗ければ暗いほど、その光は薄明光線のような効果を生む。ひとすじの光として存在したはずなんだ、なのに——。
「なのに」の次にはいろいろな感情が入るだろう。前述した輪郭のはっきりした無力感も、きっと入る。
電波ひろえないラジオになりきれば午後の授業はきれいなノイズ(岡野)
消しゴムにきみの名を書く(ミニチュアの墓石のようだ)ぼくの名も書く(木下)
卓上の『カラマーゾフの兄弟』を試し読みして去ってゆく風(木下)
神は僕たちが生まれて死ぬまでをニコニコ動画みたいに観てる(岡野)
しかしなんといっても、この一冊を強固に支えているのは、ふたりの歌人のガチな描写力である。勉強に、あるいはクラス全体についていけない自分を「電波ひろえないラジオ」に喩え、消しゴムを小さな墓石に見立て、本をめくる動きを風の試し読みと感じ、神の視座をニコ動と言ってのける。言葉にゆるみがなく、埋め合わせのような部分もなく、描写と内容と定型がぴったり寄り添っている。
読みやすさのあまり見逃してしまいそうだが、絶妙な緊張感によって一行一行が作りこまれている。ハードな内容にリアリティと重厚感を与えているのは、まぎれもなくふたりの歌人の技量による。
ミステリとしては謎解きが困難なものになるかもしれないが、短歌の本として、ひとつの新しい在り方をしめしていると思う。
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