「前衛から見た子規の覚書」では、すでに、8回にわたって、「いかに子規は子規となったか」を眺めてきたが、この標題・分析法はすべての文学者に当て嵌まるはずである。しかし、時代がずれてしまえば論理構成が全く異なってしまう。例えば1867年生まれの子規と同年の夏目漱石にこうした設問を設けてみることは興味深いはずである。「いかに漱石は漱石となったか」と問えば、ほとんどあらゆる分野に貪婪に挑戦した子規に比べ、漱石は、自分は他人が創ってくれたようなものだと語っているからその答は大方予想できる。にもかかわらず二人のおかれていた時代の空気は全く同じであり、むしろこの設問の中でこそ二人の個性が浮かび上がるのである。
逆の意味では、子規と河東碧梧桐・高浜虚子では、師弟関係にあるのと、ほんの僅かな世代差で大きな構造の違いが生ずるので余りこうした比較は向いていないかもしれない。
むしろ是非とも子規と是非対比してみたいのは、近代俳句の創設者と近代短歌の創設者として比較が可能な落合直文(1861年生まれ)である。直文が少しく、年かさであるが、近代短歌は、落合直文から始まっている。与謝野鉄幹からではないのである。鉄幹はむしろ碧梧桐・虚子に近い。
こうした理由で今回は落合直文を取り上げてみる。といってもその内容は私の独創ではなくて、私の恩師である歌人の前田透氏の『落合直文』(明治書院刊)の引き写しである。前田透氏は明治30年代、明治自然主義歌人として併称された若山牧水・前田夕暮の夕暮の子息であるが、その出自から夕暮を溯り、さらに「明星」、なお溯ってその源流であり直文が創設した浅香社の研究で成果を挙げた。浅香社以前に近代短歌は存在しないと見てよいであろう。子規以前に近代俳句が存在しないのと同様である。ちなみに、前田氏の著作の副題は「近代短歌の黎明」である。近代俳句に改めれば、まさに正岡子規そのものではないか。
俳人には歌人という存在には余り関心がないし、歌人にしてからが落合直文に興味のある人は現代では少ない。だから直文を語った本はほとんどない。ここでは前田氏の『落合直文』をほぼ抄録した形で紹介するにとどめるが、多分それでも驚くことは多いのではないかと思う。
参考までに、直文・鉄幹の旧派批判に遅れて子規は、「歌詠みに与ふる書」を書く。これは旧派に対する戦闘であり、その意味では、子規・直文は共同戦線にあったと言うことが出来る。なぜなら鉄幹は子規に先立ち「亡国の音」で旧派歌人を否定していたからである。にもにもかかわらず、やがて子規は「子規・鉄幹並び立たず」といった。これは新派の中の主導権争いのように見える。しかし実際に行った批判は、鉄幹の師である直文批判であった。これに対して、直文は無視している。というよりはむしろ気をつかっていたようである。
我々は子規の目からばかりこの論争を見ているが、子規の文脈から外れることにより、明治歌壇や俳壇の形成の姿が見えてくるのではないか。子規よりはるかに大きい政治的・文化的な胎動があり、それの渦中にあった直文を見ることにより、相対化された子規も見えてくるように思う。
あえて言おう。正岡子規の最大のライバルは落合直文であった、と。
取りあえず今回は、年譜をたどる作業をまずしてみよう。といっても長い年賦の中で、年譜の①であるが。
[落合直文年譜①]誕生から大学・従軍、文学活動開始まで
○文久元年11月、仙台藩国老(1000石)鮎貝房盛の次男として誕生、幼名亀次郎。
○明治元年(7歳)、父が戊辰の役で官軍と戦い幽閉、貧窮する。
[子規2歳]
○明治4年(11歳)仙台に出て漢学、習字を学ぶ。
[子規4歳]
○明治7年(14歳)、神道仙台中教院に入学、同窓に(日本新聞社員となり、子規の先輩となる)国分青崖がいる。成績抜群であった亀次郎は、ここで見込まれて中教院統督落合直亮の養子となり長女松野と婚約、直文を名のる。ちなみに、直亮は赤報隊相良総三の同志であり、直文に多大の感化を与える。
[子規7歳]知環小学校に入学。祖父大原観山に官学を学ぶ。
○明治10年(17歳)伊勢神宮教院入校。
[子規10歳]
○明治15年(22歳)、創設したばかりの東京大学古典講習科に第1期生として入学。許嫁松野没。
[子規15歳]このころから東京遊学を志す。
○明治16年(23歳)松野の妹竹路と結婚。
[子規16歳]松山中学を退学、上京し、共立学校に入学。
○明治17年(24歳)、徴兵され、歩兵第1連隊に入隊、大学を中途退学する。
[子規17歳]大学予備門(後の第一高等学校)に合格。
○明治21年(28歳)、除隊後、皇典講究所(國學院大學)教師。また言語取調所(後の東京帝国大学事業となる)を上田万年らと創設。「孝女白菊の歌」(阿蘇の山里秋更けて、眺めさびしき夕まぐれ)を発表し、一世を風靡する。
[子規21歳]野球に熱中。
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