2016年5月27日金曜日

【抜粋】「俳句」6月号(角川書店・2016.5刊)より (特別寄稿)蛇笏賞の戦略――俳句が文学となるために / 筑紫磐井



蛇笏賞の文学戦略「俳句を文学へ」

[蛇笏賞に先行していた唯一の俳句大賞である]読売文学賞の俳句部門の受賞者を眺めてみよう。蛇笏賞の始まる以前の読売文学賞の受賞者数は俳句部門は三名であった。松本たかし(1953年)、石田波郷(1954年)、小澤碧童(1960年)である。

(中略)

先ず言えることは、短歌部門と比較してみると俳句部門の受賞者が極端に少ないことだ。蛇笏賞・迢空賞の始まる以前の短歌部門の読売文学賞の受賞者数は八名(現在までの通算受賞者は二九名)である。

(中略)

文学の中で定型詩の二大ジャンルといわれた短歌と俳句だが、このことは短歌と比較して俳句が劣っていたことを示すのだろうか。短歌を作る人と俳句を作る人は、圧倒的に俳句の方が多いと言われながら、こうした評価を受けるのは釈然としない。確かに「俳句は文学ではない」と石田波郷はじめ多くの人は言っていたが、じっさい俳句を含めた文学賞のジャンルでこれだけ差別されることは耐えがたかったはずだ。このように歴然と数値によって示されることは、その後のあらゆる名誉から俳句が排除されることにもなりかねなかった。

(中略)

各年度の読売文学賞についてその候補及び一次予選通過者が明らかにされており、高浜虚子(1952年)、原石鼎(1968年)、水原秋桜子(1955、1957年)、山口誓子(1967年)、富安風生(1964、1968年)、中村草田男(1956、1967年)、加藤楸邨(1967年)、石田波郷(1952。ただし、1954年受賞)、久保田万太郎(1958年)等の伝統俳句作家が候補にあがりながらいずれも落選している。
 短歌でも同様に何度も候補にあがる作家はいたが、不思議なことに短歌部門では予選通過を繰り返すうちに受賞を果たしている作家が多いようである。文芸の総合評価システムの中で、俳句部門というのは、ことのほか問題を抱えているように見える。

こんな中で角川源義の英断が行われたのである。これは、文学ジャンルの中で、俳句を短歌と対等の地位に引き上げ、伝統俳句の正当な評価を図る起死回生策だったのだ。


蛇笏賞生年別受賞者

四十九回の蛇笏賞の中心となるのは「戦後派世代」だ(五二人中二五人)。もちろん、戦後派の定義はむずかしい。私は、「戦後派」の定義・範囲を決めた感のある、「俳句」〈戦後新人自選五十人集特集〉(昭和三一年四月)に名の載った人たちの年齢世代[明39~大11]を便宜的に戦後派と呼んでおく(この特集に掲載された作家名に傍線を記した)。取りあえずこのような定義で見える戦後派世代に対し、これに先立つ「プレ戦後派世代」、これのあとに控える「ポスト戦後派世代」と対比すると、蛇笏賞は現在までのところ圧倒的に戦後派世代の顕彰のために貢献してきたことが分かる。

(中略)

現代までの蛇笏賞受賞作家を俳句史的に総覧すれば、明らかに次の作家に分けて眺めることができる。①加藤楸邨や秋元不死男等の人間探求派・新興俳句世代(プレ戦後派世代)、②金子兜太や森澄雄等の戦後世代(戦後派世代)、③鷹羽狩行等のいわゆる第四世代以後(ポスト戦後派世代)である。いかにも俳句史を作った世代作家である。「文学運動作家」といえようか。しかし、蛇笏賞はそれだけにとどまらず、特別な個性を持った一群の作家たちも顕彰している。これが当初の読売文学賞と少し違う点である。読売文学賞の受賞者・候補者にはあがっていないが、俳句史で見逃すことのできない作家を蛇笏賞は取り上げている。

もう一度繰り返して言えば、戦後俳句史の流れの中ではっきりとした主体性を持った「文学運動作家」たちと、それと対比して余り運動に巻き込まれない、しかし俳壇史において記憶すべき価値のある「独自個性作家」がある。もちろんこれはいい加減な区別だ、俳句史の研究家から見れば噴飯ものだろう。後者だとて何らかの時代の影響を受けないはずはないからだ。しかし、そうは言うものの多くの俳句評論家が、悪意ではないものの前者ばかりで俳句史が作られたように語ってしまうことに対しては、蛇笏賞は痛烈な批判となっているのである。

そして、源義が選定した第一回から第一〇回までの蛇笏賞受賞者は①人間探求派と新興俳句作家と、独自個性作家たちであった。これは興味深いことだ。「文学運動作家」と「独自個性作家」という二つを顕彰するプログラムを源義は設定したからである。


独自個性作家

私が、「独自個性作家」と奇妙な名づけをした作家(福田蓼汀と石川桂郎もここにはいると思うが重複するので再出しない)も、年齢順に並べてみると、それなりに理由がわかってもらえるのではないか。独自の個性があふれている。特に、蛇笏賞は刊行句集を対象とする原則があるから、受賞者は(滅多に刊行しない)句集刊行の順で見るとその特色が浮かび上がらないのである。

  (中略)

そしてこの「独自個性作家」で驚天動地の結果をもたらしたのが、第一八回(1984年)蛇笏賞受賞の橋閒石であろう。選考委員の飯田龍太によれば、選考委員の誰ひとり閒石と会ったことがなかったという。野沢節子に至っては「私は今日まで第三句集を持つこの作家を知らなかった」とまで言っている。にもかかわらず選考結果は全委員の激賞で終っている。不透明な選考が多いとしばしば言われる俳句賞の選考の中で、これほど良心的な選考が行われた例はなかったのではないか。そしてそうした手続きを当然と思わせたのが閒石の作品であり、閒石は「現代には稀なる俳人」と評価されたのである。

すでに述べたように蛇笏賞は、源義の「文学運動作家」顕彰と「独自個性作家」顕彰という二つのプログラムを持ち、前者で現代俳句史の確立に努めるとともに、後者で目立つことのない優れた作家の顕彰を進めた。前者(こうした俳句史に賛成しない新興俳句史観も当然あるのは否まない)はともかくとして、特に後者のプログラムが上げた最大の成果は橋閒石であったと思うのである。蛇笏賞でなければできない、蛇笏賞以外に発見できなかった俳句がここにあるのではないか。

もちろん、相生垣瓜人や長谷川双魚というユニークな作家たちも忘れてはならないが、それらの頂点に橋閒石は立つように思う。これは私の全く個人的な感想なのであるが、現在の『新撰21』世代や俳句甲子園世代が考えている「俳句」というものは、橋閒石らの影響が極めて強かったのではないか。作品そのものというよりは、俳句のあり方、という点においてである。草田男や龍太以上に深く影響しているように思うのである。

※詳しくは「俳句」6月号をお読み下さい。
※文章・俳句作品は一部抄録。



付録‼ 完全保存版 蛇笏賞のすべて 





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