2016年5月27日金曜日

 【時壇】 登頂回望その百十六一~百十八 /  網野月を

その百十六(朝日俳壇平成28年5月2日から)
                         
◆漱石も子規も来てゐる虚子忌かな (徳島県松茂町)奥村里

大串章と稲畑汀子の共選である。大串章の評には「第一句。虚子を偲びながら、虚子と親しかった漱石や子規のことを思っている。」と記されている。普通ならば弟子たちや目下の者が集うところであろうが、漱石は友人と云っていいだろうし、子規は文字通り師である。明治の時代は師弟・友人の交わり方が昭和や平成とは異なるのである。師弟の紐帯は、より濃いものであったろう。鬼籍の傑人たちが集う様子は実に面白い。

◆白もまた賑やかな色花辛夷 (いわき市)坂本玄々
大串章の選である。評には「第三句。白い色にも「賑やか」さがある、と言ったところがユニーク。」と記されている。評の通りである。辛夷の咲きっぷりは実に賑やかである。白色という色の個別性を叙しているのではなくて、やはり辛夷の花であるからだろう。句のロジックとしては評の通り白と云う色の属性のように叙している。そこが俳なのであろう。

◆半鐘を残す町並み亀の鳴く (多摩市)吉野佳一

大串章の選である。半鐘と亀の質感と云うか、存在感がぴったりと合っているようだ。想像するに江戸時代から活躍してきただろう半鐘は、現代機能することはほとんどなくなっている。下五の季題「亀の鳴く」も想像上の行動であり、実際は鳴くことはない。(最近、ほえるような声(音)を発することがあると、亀の愛好家で実際に飼育されている方から伺ったが。)音にまつわる相関性が句の整合性を産み出している。

◆苑巡りきし春燈の昏さかな (高松市)白根純子

稲畑汀子の選である。「苑」は百花の盛りであろう。夕から夜になって、なほ花の明るさは、感じられる。桜とは限らないが、その花の明るさと比すれば「春燈」のなんと昏く感じることか!中七座五の「春燈の昏さ」は作者にとって驚きであると同時に、嬉しさの発見でもあるのだ。


その百十七(朝日俳壇平成28年5月9日から)
                          
◆旧家ならではの花振り枝垂振り (芦屋市)酒井湧水

稲畑汀子の選である。古木なのである。植物は正直であって、家柄に拠ってのみの理由で「振り」が変るものではない。植物的には関係ないのだ。そこには作者の主観が働いていて、関係があるように見えるのである。本当に関連性があって「振り」に影響しているとすれば、説明的な句になってしまい、詩的な趣が台無いしになってしまうのだが。

かつては羨望を集めた旧家だが、その存在感やイメージは時代によって変遷するようだ。掲句の破調はそうした気持ちの曲折を表現しているのではないだろうか、素直になり切っていない作者がいる。

◆干しあごの匂ひの島やマリア像 (諫早市)後藤耕平

金子兜太の選である。有明の島々の景であろうか?筆者は、所縁ある伊豆七島の神津島を連想した。もっとも神津島はクサヤとジュリアであるが。意外性よりも馴染み度の深さ、しっくりとマッチしている景を想うことが不思議なくらいである。島の暮らしの中に根付いているからであろう。中七の切れ字「・・や」を受けて座五の「マリア像」が盤石である。

◆春背負いシカ駆けていく木の間(フランス)ドギャラット・ソフィア

長谷川櫂の選である。評には「三席。鹿の背中を春風が流れ、春の青空が流れる。「春背負い」とは大胆。」と記されている。『白紙委任状』などで著名なルネ=マグリッドのシュールレアリスムの絵画を想像した。特に最初期の作品『迷える騎士』が掲句の構造に一致している。風ならぬ騎士を乗せて馬が疾走しているあの絵である。「木の間」の措辞は新鮮である。場の設定であり、至極当たり前の設定だが、山でも野でも森林でもない。シカと木を結び付けて、その関連性の中で場を設定しているのだ。

◆嫌はれて蝿は泪をぬぐひをり (石川県能登町)瀧上裕幸

長谷川櫂と大串章の共選である。蠅の仕草には諸説あるようだが、拝手をして手(前脚)を擦り合わせたり、頭部を撫でまわしてみたりと、止まっている時の蠅は所作に忙しいようである。そもそも蠅は泪を流すのであろうか?


その百十八(朝日俳壇平成28年5月16日から)
                           
◆妻しばし人魚座りや花疲れ (土浦市)栗田幸一

金子兜太の選である。奥様を人魚とは、余程愛情深いご夫婦なのであろう。細君の座姿に人魚を連想し中七の「・・や」の切れ字で感嘆を示している。それにしては座五の季題「花疲れ」が、切れ字の受けとして弱いが、その外し方が俳なのである。

コペンハーゲンの人魚像は膝下まで人の脚であり、その下が鱗と鰭になっている。首から下のモデルになった(頭部のモデルはそれ以外のモデルになることを拒否した為らしい)エリーネの肢体があまりにも美しかったので、膝下まで人の脚にしたという逸話が残っている。

◆猫になく犬にはありぬ花疲れ (市原市)鈴木山聞

長谷川櫂の選である。評には「一席。律儀に人間につきあう犬。猫と犬のちがい、こんなところにも。」と記されている。作者は猫の気儘さも犬の律儀さも共に愛玩しているように感じた。座五の季題「花疲れ」に限っては犬との共通性に感じ入っているのだ。上五の「・・なく」と中七の「・・ありぬ」は少なからず硬質な表現である。表現には自由さが欲しいが、犬の律儀さを際立たせてもいる。

◆短夜をいくつも区切る余震かな (八代市)山下しげ人

大串章の選である。評には「第三句。震度1以上の余震が既に千四百回以上続いている。」と記されている。

地震見舞いを申し上げます。

上五の季題「短夜」の斡旋が秀抜である。これ以上ない季題が作り出す世界に「余震」の実態が夜の闇底に寝そべっているようだ。

◆蝦夷人の誰もが待つてゐし五月 (小樽市)伊藤玉枝

稲畑汀子の選である。評には「一句目。厳しい寒さと雪に耐えて来た北海道は快適な季節を迎えた。様々な花が咲きあふれるが、耐えて来たからこその五月である。」と記されている。「ゐし」の叙法に賛否があるかも知れない。この表現は強調その他の効果を引き出している。座五の「・・五月」の破調の置き方だけでは、物足りなさを作者は感じているようだ。多分それは作者ご自身も「蝦夷人」だからであろう。

地球温暖化の所為なのだろうか、今年の五月は北海道でも三十度を超す予報があって、実態の方が行き過ぎている。


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