2015年2月6日金曜日

【俳句時評】 逆の夢を見ること――葛城蓮士の場合  堀下翔



『週刊俳句』第398号が「2014年石田波郷賞落選展」を載せている。今年度の石田波郷新人賞に応募された20句を12人の若手作家(編集部注1:応募条件30歳以下)が寄せているのであるが、読み進めるうちに「罅」(葛城蓮士)中の一句に行き当って筆者は唖然とした。

吊橋の苔を洗ふる驟雨かな 葛城蓮士

驚くべきことにハ行四段活用動詞であるはずの「洗ふ」にありうべからざる「る」が付いている。こんな活用は存在しない。同じ「罅」20句中には他に〈雨女しづかに死せり竹の秋〉あるいは〈踝の土を払へり花曇〉といった句が含まれているため、おそらくは、四段活用動詞「洗ふ」に助動詞「り」の接続した「洗へり」の連体形「洗へる」を誤って「洗ふる」としたのではなく――もちろんこれは文法規範にしたがったときの「洗ふ」と「る」の最短距離を言っているのであって、現実的にそんな間違え方はタイプミスでない限りないだろうが――、たとうれば下二段活用動詞「受く」の連体形が「受くる」となり、上二段活用動詞「落つ」の連体形が「落つる」となるのと同じように、「洗ふ」という動詞も体言に接続する際には「る」が出現すると判断されたものであろう。

この「洗ふる」というミスが稚拙であることは言うまでもない。いったい葛城は、ふだんの生活で用いる「洗う」が、たとえ体言に接続するときであれ、「洗うる」、あるいは現代語らしい「洗える」――可能動詞とはむろん別物の――や「洗いる」とはならないという事実に気が付かなかったのだろうか。文法知識の欠如は葛城ひいては若手作家のみの問題ではないし、四角四面に「四段活用の動詞は連体形が終止形と同じ形ですよ」といったことを言ってみたところで意味もない。筆者は純粋に、日常茶飯の言葉であるはずの「洗う」が、葛城が持ち合わせている文語脈とまったく断絶していることに驚いたのだった。

葛城が「洗ふる」と書かないではいられなかった気持ちを、正直に言えば筆者は分からないでもない。『万葉集』を読んでも『更級日記』を読んでも『平家物語』を読んでも『好色一代男』を読んでも決して行き合うことがない「洗ふる」という語は、しかし文語脈の中に存在しているような気がする。なんと一方的な期待であることか。

「洗ふる」は「受くる」「落つる」といったものからの類推であるとつい今しがた書いた。それはあくまでなぜ「る」が出現するのかということの説明でしかない。もうひとつ考えるべき事柄はある。――なぜ「洗ふる」であるのか――? 

ここにあるのは規範化されていない初歩的なイメージである。すなわち、「る」が出ると文語動詞の連体形のようである、だ。文語に期待を寄せ過ぎた葛城は「洗ふ」では白けてしまう。文語を書き、文語で物を見ようとするあるときにおいて、「洗ふ」という言葉ではどこか正確に表現しきれていない、そう感じる。そんなところから「洗ふる」は産み落とされた。何かを認識するという行為に言葉はいつも付いて回るはずだ。少なくとも葛城にとっては、その〈驟雨〉が〈吊橋の苔〉を〈洗〉っている光景は、〈吊橋の苔を洗ふる驟雨かな〉という形でしか書かれえないものであった。「洗ふ」と書けば言いうるものは決して「洗ふる」とは書かれない。葛城が文語に期待する限りにおいてその認識は成立しうるのである。

いまや文語を書くことは文語を演ずることと同義であろう。かつて、文語を書くことが呼吸をすることと変わらない身体性を持っていたころ、あることをある文語で書く行為には、なんら〈書くこと〉としての違和がなかったはずだ。あることをある言葉で認識するというシステムに支えられながら、しかし言葉を使っている側にしてみれば、言葉は、見えているものを、自分の気持ちを、そのままに表現することができる非常に便利なものであった。かつて文語は正直であった。

葛城はその正直であったころの文語を使えない。文語を使うことはたしかに文語として見えているものを捉えることではあったが、それは決して正直な言葉としての文語ではなかった。見えているものをそのまま書くことができる言葉であった筈の文語に、彼は、新鮮な認識が造形されることを感じている。逆の夢を見ている。〈吊橋の苔を洗ふる驟雨かな〉はたしかに稚拙な句ではあるのだけれど、しかし、その逆の夢の証左である。たとい誤用であろうともそれは、言葉を使うことに真剣な人間の態度だと筆者は思うのである。


5 件のコメント:

  1. りゅーたん@俳ドル2015年2月8日 18:15

    久しぶりだね。元気にしているかい?
    学問上の興味として、いくつか聞きたいのだけど、いいですか。
    知ってる範囲で教えてもらえたら嬉しい。いま私が書いているいる論文に有益な情報になることに間違くてね。
    それと、堀下君が言葉に対してどのようなイメージを現在持っているのかを是非とも聞きたい。
    これは、初期の堀下がどのような言葉のイメージを持っていたのか、後の堀下研究(五十年後か百年後か。または明日か。)の有益な資料に絶対になる(笑)

    まず一つ目に、「かつて、文語を書くことが呼吸をすることと変わらない身体性を持っていたころ」とは、具体的にいつの頃を指すのか。例もあるなら、とても助かる。
    また、それが飽くまで仮説の場合、〈書くこと〉という明らかにア・プリオリでない言語習得の末に到達する行為が、呼吸という行為と並列するほど”自然な”行為になることは可能なのか。
    且つ、その境地において、文字言語における文飾と、音声言語における「言葉の綾」とは同質のものになり得るのか。そのあたりはどう考えているのかも聞きたい。

    二つ目。「あることをある言葉で認識するというシステムに支えられながら」とは、ソシュールのラング(社会における言語の総体)のことだと思ったんだけど、「しかし言葉を使っている側(これがパロール?)にしてみれば、言葉は、見えているものを、自分の気持ちを、そのままに表現することができる非常に便利なものであった。」と言っているんだけれども、「見えているもの」と「気持ち」とをひとくくりにしてしまってよいのかということ。
    ウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては沈黙しなければならない」というんだけど、「気持ち」という感情の側面が語り得るもの、つまり形而上学的でないものなのかどうか。
    もし語り得るとしたなら、言葉の〝伝える″という機能性を保障しているのは「あることをある言葉で認識するというシステム」に違いないだろうけど、最も大切な人間の死や耐え難い苦痛、その他の突出した感情を伝えるとき「かなしい」や「くるしい」「つらい」という言葉を発した時に、それは遜色なく他者に伝わるのだろうか。
    そして、「あることをある言葉で認識するというシステム」を越境することはできるか。それができるならば、震災や戦争の体験を他者が代弁することは可能なのかもしれない。
    その上で言葉がそれほどに便利であるのか。是非とも聞きたい。

    そして、それらを踏まえて、口語で書くということは口語を演ずることと同義であるのか、そうでないのか。
    かなり長く曖昧な質問になってしまったのだけれど、是非とも後世のためにも聞きたい。

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    1. りゅーたん@俳ドル様
      こんばんわ。当サイト閲覧並びにコメントのご記入ありがとうございます。執筆者都合により少々お時間いただきますが、堀下翔よりコメント欄での返信をいたします。ひとまずお知らせいたします。 blog俳句新空間 北川美美

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    2. りゅーたん@俳ドル2015年2月19日 15:35

      御返事、遅くなってしまい申し訳ありません。いつも楽しく拝見しています。堀下君からのコメントも頂けまして、お取次ぎのほど、感謝申し上げる次第です。ありがとうございます。

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  2. りゅーたんさん。お久しぶりです。

    まず、ひとつ目。文語に身体性があったころ、のくだりです。〈文語-口語〉はもちろん厳密には文章語か会話語かの区別でしかありませんが、一般にわれわれがこの言葉を使うときには、明治以前の文章語であるか、言文一致以後の文章語であるか、の意味で考えて差し支えないでしょう。俳句文法はおよそ中古日本語を規範にしているようですが、ここではそれ以降の文章であっても明治以前のものであれば文語として考えています。〈翁、其書をも見し上の事なれば、よき折あらば、翁も自ら観臓してよと思ひゐたりし〉(蘭学事始/杉田玄白)も文語です。

    書くことと呼吸とを並列して書いたのは、あくまで〈息をするように〉という慣用句のつもりだったのですが、実際にそれはごく自然な行為ではないかと……勘でしかないのですが……思います。この場合の〈書くこと〉は、文脈上〈使うこと〉とほとんど同じものであり、それはもっと言えば〈それで考えること〉とも等しいのではないでしょうか。文語を使っていた人々は、お腹がすいたときには「あな、腹ぞ減りたりける」と考えていたでしょう。「ああ、お腹がすいたなあ」ではなく。もちろん〈文語-口語〉は断絶するものでは決してありませんが、この問題を考える場合には、やはり、外国語のように扱ったほうがよりよいと思っています。中国人が〈我肚子餓了〉と言うことのように。

    文飾と言葉の綾が同質でありえるか、という質問に関しては、同じものとみなしてよいのではないか、と思います。どんな時であれ認識と言葉は背中合わせです。『レトリック感覚』(佐藤信夫/1992年/講談社学術文庫)に出てくる例なのですが、「あの隠密め……」を隠喩として「あの犬め……」と表現するとします。この表現について佐藤はこのように言います。〈「犬」という語が《犬》という意味をすっかり失ってスパイそのものに化けてしまうわけはない。それなら、はなから「隠密」とか「間諜」「まわし者」「秘密諜報部員」などと言えばいい〉。こういった意味で、認識における文飾と言葉の綾は同質である筈です。ちなみにですが、この本に掲載されているレトリック用語日本・ヨーロッパ対照表には、こんな項目があります。〈ことばのあや、あや、文彩(堀下註―あや、とルビ)、綾(話色、修飾、装飾、文飾(……)文彩)――FIGURA/figure(du discours)/figure(of speech).〉

    ふたつ目。はい、たしかに文中の〈システム〉はソシュールが言っているものです。がしかし、残念ながら僕はソシュールの原典にあたったことがなく、せいぜい大学生向け文学理論書程度の知識しか持っていないため、この〈システム〉のことを考えていたときにソシュールの顔が頭に浮かんでいたといえばウソになります。彼の〈はじめに言葉ありき〉という考え方は、すでに一般常識といってもよいでしょう。そうしたものとしてこの〈システム〉を書きました。

    後出の震災や戦争の経験を「かなしい」「くるしい」「つらい」で表現しうるかどうかはひとまず置きます。言葉にはちょっとしか働かない言葉とよく働く言葉とがあるでしょう。僕はマラルメの「詩の危機」が大好きなのですが、この文章の中で彼が言っている、意味をうけわたしすることで役目を終える貨幣としての言葉、それから意味以外のものを立ちのぼらせる音楽としての言葉(詩の言葉)、という区分は理解を助けると思います。社会生活上で自分の感情を表現しなければならない場面は少なくありません。「嵐の『Sakura』予約できた?」「初回限定版、予約し損ねたよ。くやしい」というとき、この「くやしい」はひとまず自分の気持ちを表現し、かつ相手に伝えています。主にこの貨幣としての言葉である限りは、言葉は気持ちを表現できると言わねばならないのではないでしょうか。

    葛城の句を読んだときに頭に浮かんだのは、これはドゥルーズの言った「どもること」だ、ということでした。〈文体とは、自らの言語の中でどもるようになること。難しい〉〈ただ一つの国語の中でさえもわれわれは二言語併用者であるべきだ。自らの言語の内に少数者の言語をもつべきなのだ。自国語そのものから少数者の用法をつくり出さねばならない。複数の言語の併用とは、ただ単に、各々がそれ自体では均質な数多くの言語体系をもつことではない。それはまず、その各々が均質であることを妨げるように働く変異、逃走の線だ。他国語の中でアイルランド人のように、あるいはルーマニア人のように話すのではなく、その反対に、自国語そのものの中で、外国人のように話すことだ〉(『ドゥルーズの思想』ドゥルーズ、パルネ/田村毅訳/1980年/大修館書店)。葛城にとっての文語はほとんど外国語であるがために、実際にはドゥルーズが言おうとした逃走の線ではありません。がしかし、直感として僕は、葛城の句を読んだときにドゥルーズの顔を浮かべました。

    すなわち、均質な言語体系をはみ出すことにこそ、詩の言葉を使う責任があるのではないか、ということです。〈文語-口語〉という二項対立は、この点において〈音楽-貨幣〉という別の二項対立と重複します。貨幣としての言葉で詩は書かれない。かつての人々にとって貨幣であった言葉を、音楽の言葉として用いようとする葛城を僕は「言葉を使うことに真剣な人間の態度だと筆者は思うのである」と書いたのです。

    そうなればみっつ目の答えも明白だと思います。口語を演ずることは口語を音楽の言葉として使うことです。最近の句で言えば〈焚き火からせせらぎがする微かにだ〉(福田若之『俳句』2015.1)の「微かにだ」という表現に僕はとてもどきっとします。

    震災や戦争の体験を他者が代弁できるほどに言葉が便利であるか、という点もまた今更書くことではなくなりました。「代弁」が可能なのは、うけわたしを目的とした言葉です。自分の体験を音楽の言葉で書くことは、もちろん可能ですが。

    ひとまず、質問に答えてみました。(堀下研究というのは悪趣味な冗談だと思いますが)。お役に立てたでしょうか。

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  3. りゅーたん@俳ドル2015年2月19日 19:45

    回答、ありがとう。
    のっけから余談になるけど、この質問を問いかけたとき、森山繁という沖縄の俳人を調べていてね。夭折の彼が残した文章や句に対する思索の根幹を為すような、シラバスになるようなテクストが見つからなかったんだ。そういった意味で、作家研究に苦労していたわけで、「堀下研究」というのは、全く悪い冗談でもないつもりだったんだが。しかし、そうとられてしまったなら申し訳ない。ごめんなさい。

    回答のおかげで、僕にも理解できてきた気がします。ついでにドゥールズ/ガタリの『カフカ』とマラルメの「詩の危機」を読むこともできました。これは嬉しい収穫です。勿論、原典ではなく訳書だったけど。しかし、これらを併読して面白かったことは、この二つが非常に対極的な位置に言語を巡る問題を置いていることです。
    対して、マラルメの「詩の危機」には、1886年~1895年に書かれた、いわば〝古き佳き列強時代″の価値観を見ずにはいられませんでした。別のテクストですが「聖務・典礼」―カトリシスムでは、「一つの種族。われらの種族には、かかる名誉が授けられている、すなわち、形而上学的でありかつ~」という観念を下地に読めば「諸々の国語は、それが[地上に]二種類以上存在するという点において、不完全である。すなわち、絶対無二、最高の言葉というものがないのである。」という考え方の輪郭も、うすぼんやりと見えます。
    ドゥールズは、マイナー文学を「マイナーの言語による文学ではなく、少数民族が広く使われている言語を用いて創造する文学」と述べていて。1975年という時代を考えたうえで、マラルメの夢見る「絶対無二、最高の言葉」と全く違うベクトルとして「逃走の線」へむかっていくわけです。雑に要約すると、ネーションと言語の問題です。
    これに関連した事情を述べると、「山之口獏は、なぜ琉球語で詩を書かなかったのか」という問いが時折聞かれます。それは、「会話」という詩にみられるように、当時の琉球に付与されたイメージ(佐藤惣之助『琉球風物詩集』以降)と獏自身のものとが乖離したものであり、琉球の文体を用いたところで、結局は既存の他者によるイメージに回収されてしまうという点をかんがみればわかることでしょう。そう考えると、獏が〝標準語〟で詩を書こうと、〝琉球語〟で詩を書こうと装うことには何らかわりがないのです。

    そのような地平においての新たな疑問は、彼らの〝国語からはみ出す″という考えが必ずしも一致するものではないのでは、ということです。マラルメは、「たとえば私が、花!という。すると私の声がいかなる輪郭をもそこへ追放する忘却状態とは別のところで、[声を聴く各自によって]認知されるしかじかの花々とは別の何ものかとして、[現実の]あらゆる花束の中には存在しない花、気持ちの良い、観念そのものである花が、音楽的に立ち昇るのである」と書いているあたり、わりかし季語の共同幻想性を想起せざるを得ないですが、それはさて置き、本当に〈音楽―貨幣〉は、〝二項対立″なのかということです。あくまでそれらは一本の紐の端と端に思われてなりません。そうなってくると、〈文語―口語〉と〈貨幣―音楽〉の重複しないのではないでしょうか。
    続いて「大衆が最初にそれを取り扱ってみる際の、あの流通容易な、万物を代表する通貨めいた一つの機能とは反対に、何よりもまず、夢であり歌なのであって、〈詩人〉の許にあっては、非現実的創造〈フイクシオン〉に捧げられた一藝術の本質上、必然的に、己に潜伏する非現動の力〈ヴイルチユアリテ〉を再び取り戻すのである。」に関しては、〈音楽―貨幣〉が〈非日常―日常〉であり、ある種の文脈(コンテクスト)がそれらを分かつということを述べているのではないでしょうか。つまり、そういった日常的な言葉(俗というと俳句的か)からのはみだしであって、ドゥルーズのそれとは分けて考えなければいけないのかなというのが読後感です。

    さて、「文語が話されていた時代」ということについてですが、あれから様々調べたのですが、実は既存の文語体系が話されていた時代というのは、平安後期周辺らしく(その後は話し言葉との乖離が進んでいった様子)、江戸や明治の研究の成果により何度も更新されて現在に至った体系だということです。つまり、俳諧誕生以降と「文語が話されていた時代」自体にズレがあること。また、言文一致が大きな断絶点になっていないこと。(そう見えるのは、学制の普及による全国的な言文の統制によるものだろうという指摘がある。)
    しかし、だからと言ってどうこうという問題ではありません。葛城さんのなかの「文語らしい文体」に対する倒錯が、「装う文語」のメッキのはがれたところから露わになっているという切り口になんら影響を及ぼさないからです。(ドゥールズのそれと同じかとは、もう一度考えねばなるまいが。)
    寧ろ、疑念として残るのは、その論を成り立たせるために、俳諧誕生以来、「文語(平安末期の言葉)を書くことは文語(平安末期の言葉)を演ずること」であったという可能性を易々と通過し、起源なき不思議な〈俳人的身体像〉を創りだしていることにあるでしょう。
    また、そういった像を据えながらも、折角ドゥールズ的考察によって導きだした結論から「稚拙な句」「誤用」という方向に傾き、しかし「言葉を使うことに真剣な人間の態度」に収束させてしまったあたりが、既存の言語体系を正典化しなおして、結局、葛城さんは二次的な位置に放置された形で終わってしまっている点、非常に残念でなりません。さらに言えば、エクリチュールとパロールが〈言葉〉と雑多に扱われているところも。これに伴って、俳句は書かれる詩か話される詩か、どちらでもあるかどちらでもないかが必要な議論ではないでしょうか。

    もし、俳諧誕生以来、「文語(平安時代の言葉)を書くことは文語(平安時代の言葉)を演ずること」だったなら、それは彼らにとって、音楽(非日常であり、夢であり、平安の香りを残したそれ)の言葉に他ならなかったでしょうし、そういう意味が現在の文語の使用にあるかは、もう一度精緻に考えねばなりません。長谷川櫂氏の挑戦が、そういったユートピアを可能にしているのかも、『震災句集』も再度考えねばなりません。
    さらに言えば、口語で書くということも、結局は〈話し言葉をそのまま書く〉ではなく、〈話し言葉風に書く〉という装いでしかなく、推敲をせず、そのままこぼれ出た言葉を書きとめていたとしても、結局、定型に納めるためにある程度の作為を加えねばならないということです。〈話し言葉をそのまま書く〉場合は、ほかに考えねば。しかし、記録性が入るとマラルメ曰く詩になるかは疑問ですが。

    また、甚だ気になることは、〈話し言葉風に書く〉時に、俳句が執拗にその主体を要求し、開示されたとき、〝その人らしさ″は「自分の体験を音楽の言葉で書くことは、もちろん可能ですが。」というように、本当に可能でしょうか。獏のような場合も考慮に容れねばなりません。

    ここまで長々と書き連ねてきて、なにが言いたかったかというと、あらゆるステップを跳躍して、そんなに易々と言葉や概念に正典性を授けていいのだろうかということです。また、それに伴って無意識に周縁化された誰かが居るのではないかということです。

    しかし、今回、大変勉強になったことと、めんどくさがらずに回答をもらえたことに感謝したい。ありがとう。とても楽しかった。それと、ここまで書き連ねれば、はっきりと間違いがあるかもしれません。その場合は、指摘いただきたい。重ねて感謝。

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