2015年1月23日金曜日

時壇  ~登頂回望その四十九・五十 ~  / 網野月を

(朝日俳壇平成27年1月12日から)

◆自分史に書けぬ自分も居て師走 (東京都)石川昇

金子兜太の選である。評には「有り態に言えばこうです。師走ともなれば更に」と記されている。作者が自身について叙していて、しかも「書けぬ自分」=悪事の多い自分を気取っているならば、自嘲・諧謔だけの句意になってしまうのではないだろうか。鼻持ちならない様だ。他人に関わることの為に「書かぬ自分」があるとしたら美談ともなるであろう。最近は、暴露本的内容の自伝が多いが、「自分史に書いてしまう他人」なのである。 本来は「書けぬ」ではなくて「書かぬ」が正統派ではないだろうか。

中七の「自分も」は気になるところだが、当然「自分が」と限定するわけには行かない内容であるから、「自分も」である。が「も」にすると「自分史に書けぬ自分」の対象が拡がり過ぎるきらいがある。
評には「師走ともなれば更に」とあり、季題の斡旋については肯定的に捉えている。がこの「師走」は動くかもしれない。

◆鷹通る空に大根干しにけり (津市)中山いつき

大串章の選である。評には「第一句。鷹が大空を飛んで行く。干大根が地上にかがやく。大らかで気持ちの良い句。」と記されている。鷹の飛ぶ大空を「通る空」と叙したのであるが、「通る」の述語は鷹に相応しているのだろうか?季題「鷹」の作例には「舞う」が多いようだ。

加えて座五の「・・けり」は大仰過ぎると思われる。

同じく鷹を素材にしている句に

◆旅人が鷹のごとくに風の谷(松戸市)大谷昌弘

がある。金子兜太の選である。評には「大谷氏。荒々しい孤独感。やや図式的だが。」と記されている。評では鷹の孤高(=孤独感)を言い当てている。が、「鷹のごとくに」の比喩が定まらない感がしてしまう。直喩であるのに何か曖昧さを含んでいるためだ。何かは、つまり掲句は鷹の性質を「ごとく」表現したのであって、鷹の様態を表したのではないということである。




(朝日俳壇平成27年1月19日から)

◆日向ぼこ徳の少なき者ぬける (八幡市)小笠原信

金子兜太の選である。ウムウムと肯ける句である。作者には「ぬける」ことによって、その人物の徳の多少が判るのである。徳の多少は普通外見では見分けがつかないのであるから、掲句は叙景句ではない。しかしながら、ここまで判然と言い切られると、それが景となって目に浮かんで来る。

良い形をしてそれでいて付き合いの悪い奴がいるものだ。

とここまで読んでハタと気が付いた。もしかしたら作者自身の自嘲の句なのかも知れない。

◆牡蠣啜る愛に飢ゑたる子のごとく (岡山市)三好泥子

長谷川櫂の選である。中七座五のフレーズは前掲句同様に読者をドキッとさせるものである。生牡蠣を食べる際には貝柱を切り離して貝殻に載せ、ポン酢などを加えて食べる。生牡蠣を貝殻ごと手に取り啜るのだ。箸の介助を要する場合があるが要は啜るのである。

啜っているのは誰であろうか?作者か作者が見ている誰かか。その詮索をする前に、「愛に飢ゑたる子」の直喩表現に景の定まらないところがあるようだ。「愛に飢ゑたる子」の「啜る」様子をどのようにしても描ききれないのである。そこから啜っているのは作者自身であろう、ということになる。とすれば直喩表現にはいささか無理が生じるのではないだろうか。

◆小春日を渡りきつたる入日かな (大分市)有松洋子

稲畑汀子の選である。評には「一句目。冬の太陽が沈むまで暖かい一日であった。小春日を渡りきった入り日とは見事。」と記されている。評の通り「渡りきつたる入日」の措辞が秀れている。今日一日の陽射しへの感謝の念が滲み出ている。・・が、「入日」は見えているのだろうか?「渡りきつたる」は完了の意味であろうから、日没してしまったようにも読めるのだ。

◆煤逃げの退屈な眼がさまよへり (川崎市)中原なおみ

稲畑汀子の選である。評には「二句目。年末の忙しさの邪魔をしないよう、手伝わない退屈を見事に表現。」と記されている。今週の秀抜であろう。手伝わない者の肩身の狭さを表現しながら、作者の手伝わない者への微かな愛情も感じられるのだ。「さまよへり」を各読者はどう解するのであろうか?



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