その四十七(朝日俳壇平成26年12月22日から)
◆母の忌と父の忌のこす年の暮 (山梨県市川三郷町)笠井彰
長谷川櫂と大串章の共選である。客観的事実を淡々と叙した句作りである。どうしても身内の忌になると愁いの在りどころに冗漫な感じが匂ってしまうものだが、掲句は感情表現の語句を省いて、つまり感情的質感のある語句を使用しなかったところに成功がある。作者のご両親は共に「年の暮」にお亡くなりになったのである。暮の諸事をこなして落ち着いた心境の中で、ご両親の忌日を修すのみとなった一種の清廉さが句の位取りを高くしている。句中には「母の忌」「父の忌」「年の暮」の三つの時を意味している語句が配置されて、その質感の共通性から理解し易い。背景には事件性があるのかも知れないし、災難に遭われたのかもしれないが、句に叙されたことだけを読み手は読む。それ以上の読みを排除する句である。
◆漱石忌灯の入る朝日新聞社 (日立市)國分貴博
長谷川櫂と金子兜太の共選である。兜太の評には「十句目國分氏。漱石と朝日新聞社の縁は実に深い。」と記されている。「灯の入る」とあるから「朝日新聞社」は建物である。が掲句の場合、評にもあるように「漱石忌」の関連性から、単に建物だけではなくて会社としての実体・組織の意味合いが加味されるだろう。筆者は新聞社の内実を知らないが、一般的理解として常夜灯の下の仕事のように想像する。その一年三百六十五日の日常をこの一句は「漱石忌」で受け止めた。季題の斡旋の手本のような句作りだ。十二月九日の「漱石忌」を待ちわびて投句した匂いがする。
因みに二〇一五年の「漱石忌」は百回忌になる。
その四十八(朝日俳壇平成27年1月5日から)
◆旅人のやうに北風まとひ来し (富津市)三枝かずを
大串章と稲畑汀子の共選である。「旅人のやう」だから「北風」を纏っているのであり、逆に「北風」を纏うから「旅人のやう」でもあるのだ。その二重の両義性が句の意味を相乗効果的に強固なものにしている。「北風」の中を来るのだから強さがなければならないのだ。そこで、この句の主体は一体誰なのか?が問題となる。作者自身なのか、それとも第三者の様を詠んでいるのか。筆者は作者自身だと断ずる。そうでなければ面白くない。そうでなければ只の景になってしまう。
◆着ぶくれて私は何も怖くない (八王子市)福岡悟
稲畑汀子の選である。評には「三句目。着ぶくれた作者の安心感が面白い。」と記されている。一体評の通りの解釈でよいのだろうか。「着ぶくれ」たのが他人ならば、安心感を感じ取ってもよいだろう。が「私は何も怖くない」という以上は、作者本人が「着ぶくれて」いるのだ。上五の「て」は前後を強く結びつける助詞である。場合によっては因果関係を含むことも在り得る。「沢山着重ねたから」というようなニュアンスが見え隠れしているのだ。もしかしたら、「着ぶくれ」た不格好さへの他人からの視線を「怖くない」と云ってはいないだろうか。
◆自分に成る自分を呉れる枯野かな (秩父市)浅賀信太郎
金子兜太の選である。評には「浅賀氏。枯野を歩いている。次第に自分を取り戻す。いや自分を貰える思い。」と記されている。評の通りである。掲句の特異性は、「自分に成る自分を呉れる」のが「枯野」であることである。これは作者一個人の感性なのである。一般的には、もし植物の季題を斡旋するならば句意から察して、「新緑」であったり「万緑」などであろう。旺盛に繁茂する緑のようなプラスアルファの質感が欲しいところだ。が作者は何もない「枯野」を設定した。何もないことが返って、自分を取り戻すチャンスを与えてくれるというのである。季題「枯野」の既成の意味合いに対して新しい意味付けをしようとする句になっている。
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