2014年9月19日金曜日

 【朝日俳壇鑑賞】 時壇  ~登頂回望その三十三~ 網野月を

(朝日俳壇平成26年9月15日から)


◆露けしやときどき直す遺言書 (広島県府中町)宮本悠々子

長谷川櫂の選である。評には「三席。そうして娘息子たちに睨みを聞かせている。なかなかの老人。」と記されている。評のはじめに「生死にかかわる三句。」とあり、一席に「犬のとる亡き子の歩調秋夕焼」(大和市・杉浦正章)を、二席に「七七日あくれば遠き鰯雲」(糸満市・吉田八太)を選している。一席の評には「一席。犬の歩調に湧きおこる悲しみ。が、それは言わない。秋の夕焼けがひろがるばかり。」と記され、二席の評には「二席。この句にも茫々たる悲しみがある。」と記されている。一席と二席の句は確かに生死にかかわり、悲しみが滲み出ている。が掲句は生死にかかわるが、悲しみを表現していないようだ。

このように眺めてみると三句の並べ方が実に絶妙である。評でも触れられているように、一席の句はコノテーションの範のような句である。二席の句は、鰯雲との空間と七七日の時間を「遠き」で括った強いて言えばデノテーションの句であろう。それに対して掲句は明らかな諧謔の句である。三句に共通なのは季題の確かなことである。不動の季題を斡旋することで、句の拡がりが増し奥行きも深くなる。諧謔の句であるからこそ上五の「露けしや」の作者の本心が、中七座五の韜晦に繋がっているように筆者には感じられる。


◆寂として花野の石は石のまま (みよし市)稲垣長

大串章の選である。評には「第三句。美しい花野だけに「石は石のまま」が動かない。」と記されている。「石」は象徴性の高い語句であり、「花野」も掲句の場合には具象性が低いように感じられるので、全体的に掲句は観念的な意味合いの強い一句になっているのではないだろうか?
花野の美しさなのか?清楚さなのか?生命感なのか?分らないが、作者は花野をポジティヴに捉えて「石は石のまま」と叙して対比している。決して「石」はネガティヴな存在なのではないのだが、一種の基準としてそこに配置されているのだ。




【執筆者紹介】

  • 網野月を(あみの・つきを)
1960年与野市生まれ。

1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。

成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。

2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。

現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。




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