2016年12月23日金曜日

【抜粋】<「俳句四季」29年1月号>俳壇観測連載168/面白い俳句とは何か―――楠本憲吉と鈴木明  /筑紫磐井



一般読者のための句集

私は、多くの句集を読んで批評している。しかし、時折、プロフェッショナルな立場を作りだしてしまっているのではないかと反省している。私の周囲にいる人たちもそうなのであるが、余りそれを何も疑問にしないできた。しかし、限られた人が作り、それと同質の人が読み、それを批評していることで果たして文学としての俳句が進歩するのだろうか。

そこに一般読者は介在していない。これは第二芸術論でも指摘されたことだ。第二芸術論で指摘された俳句が芸術であるかどうかはボブディランがノーベル文学賞を受賞する時代にあっては余り問題ではなくなったが、読者がいないことは解決していない。
一般読者の中に、特定の俳句に共感することがないとはいわない。それが俳句をきっかけになる人もいる。しかし一般読者の存在はこれと別である。

一般読者を対象とした句集とは句集を読んでしまってから感心するのではなく、句集を読もうとさせる句集でなければならないはずだ。そして、一般読者に読ませるためには面白い俳句でなければならない。これはおかしい俳句とは違う、どんな悲しくても、涙を流しても面白い俳句がある。面白いとは、感興があるということだ。

現在読む句集は、予めこの作者がまとめた句集ならという予断で読むことが多い。これは一般読者が面白い句集ではない。面白い句集とは一般読者が読みたくなる句集なのだ。
また、我々は俳句がうまいとはいうが、うまい句集も一般読者が面白い句集ではない。多分、客観写生や花鳥諷詠は、一般読者にとってうまくても面白い句集ではないだろう。虚子は面白いことをいっていた。「面白くない俳句を作る、その作句態度を是非必要とします。面白くない俳句態度を我慢して、ここから出発すれば上達することが出来るのであります」。虚子の言葉に従う限り、一般読者にとって面白い句集ではないだろう。虚子の言葉は一般読者に悔い改めろといっているのだが、気まぐれな一般読者は虚子のいうことなど聞かないから、一般読者はますます句集から離れてゆくだろう。

一般読者を対象としないという信念を持った句集があってもいいが、時に立ち止まって一般読者が面白い句集とは何かを考えてみることも必要ではなかろうか。


面白い句集

客観写生や花鳥諷詠が面白くない理由は俳句の記述内容や表現ばかりに作者が夢中となり、それらが結合する情緒に無関心であることによるものだと思う。情緒がなければ一般読者は面白いとは思わない。

私がこうした点で間違いなく面白いと思うのは楠本憲吉である。すっかり俳句史では忘れられた感のある憲吉だが、一時は俳壇の寵児であった。虚子の評価も低くはなかった、ましてジャーナリズムはこぞって憲吉を取り上げた時代があった。その理由は、憲吉俳句の面白さにあったと思う。しかし、料亭灘萬の御曹司で才走った話術と文才、俳句ジャーナリズムではない一般ジャーナリズムでの知名度の高さ、現俳協からも俳人協会からも離脱したこと、これらすべてが俳人にとっては不利に働いたようだ。


汝が胸の谷間の汗や巴里祭 
背後より薔薇の一撃喜劇果つ 
オルゴールに亡母の秘密の子か僕は 
天にオリオン地には我等の足音のみ 
枝豆は妻のつぶてか妻と酌めば 
ヒヤシンス紅し夫の嘘哀し 
アイリスや妻の悲しみ国を問わず 
チューリップ女王へ葉みな捧げ銃 
死んでたまるか山茶花白赤と地に 
天に狙撃手地に爆撃手僕標的

素材は様々であった。専門俳人から見ると軽薄で卑俗という批判はあるが(俳句は元々卑俗を根本原理として生まれたのだからそれで悪いわけはない)、その時代の情緒を対象と結びつける卓抜な能力を憲吉は持っていた。俳句はどんなに高邁で文学的・哲学的になってもいいが、第一歩はここから始まらなければならない。

私は座右の筆頭に『楠本憲吉全句集』をおいている。仕事で腐ったときだけではなく、俳句で憤懣やるかたないときや、才能が涸れかけたときに読むのである。草田男句集や龍太句集とは全然別種のリラックスが身をつつんでくれるのである。


(以下略)


※詳しくは「俳句四季」平成29年1月号をお読み下さい。


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