2016年3月18日金曜日

 【時壇】 登頂回望その百五~百八 /  網野月を

その百五(朝日俳壇平成28年2月14日から)
                           
◆邪魔になる葉を一つ取るシクラメン (小樽市)辻井卜童

稲畑汀子の選である。評には「二句目。水を切らすとすぐ萎えるシクラメン。邪魔な葉を取るのも世話のうち。」と記されている。俳句における叙述の緊張感はあまり感じられない句である。シクラメンの手入れの方法の実践本に掲載される文言のようでもある。中七の「・・る」と座五の季題が連続するような読みも出来るところがあるので、いわゆる散文的な叙法を感じるのかも知れない。それにしてもシクラメンを世話した経験のある人には実感として感じられる句であろう。

◆大雪の日曜日とて猫来る (長崎県小値賀町)中上庄一郎

長谷川櫂の選である。評には「二席。ぽっかりあいた空白のような大雪の日曜日。その中をよぎってゆく猫がいい。」と記されている。「大雪」は二十四節気であろうか?去年二〇一五年の節気「大雪」は十二月七日で月曜日であった。「おおゆき」と読めばカレンダー的には問題ないが、そんな荒天の日に「猫来る」ことがあり得るであろうか。
兎も角、寒い日に猫が訪ねて来てくれることにはほっこりした感じがあり、「大雪」と「日曜日」の取合せの中で、「日曜日」の一時の憩いに軍配を上げたかたちになっている。

◆落葉掻く木影のごとき翁かな (沼津市)林田諄

大串章の選である。評には「第二句。翁が木の間で静かに落葉を掻いている。「木影のごとき」が言い得て妙。」と記されている。この「翁」はこの景の中に同化していると思われる。上五の「落葉掻く」という動作をしているのだが、一瞬をとらえて写真にしたような句作りである。それにしても「翁」は古めかしい語彙ではないだろうか?

◆廃屋にあらず暮雪に灯したる (米子市)中村襄介

大串章の選である。最近の句には「廃屋」や「空き家」が多いようである。それぞれ田舎であったり、都会であったりで使い分けているようだ。掲句は閑村の景であり、「暮雪」の「灯し」は叙景句の王道である。





その百六(朝日俳壇平成28年2月22日から)
                         
◆日向ぼこ日本は海に寝転んで (長野県川上村)丸山志保

金子兜太と長谷川櫂の共選である。兜太の評には「丸山氏。日本列島自体が太平洋に寝転んで日向ぼっこの印象。自分もその列島の一人。」と記されている。日本列島はほぼ南北に細長いので、太平洋の西の隅で横になっているように見えるかも知れない。そんな事を空想しながら日向ぼっこしてウツラウツラしているのだろう。

◆春よ来い母に記憶のあるうちに (東京都)山内健治

長谷川櫂の選である。評には「一席。もう一度、見せてやりたい春。やはり記憶に値する地球の麗しい春。」と記されている。同感である。筆者の実母は二十年前に他界したが、義母は健在である。ただ記憶の方は覚束なくなっている。今年の春を記憶に留めておいて欲しいと願いばかりだ。上五は「春よ来い」と命令形で呼びかけになっている。座五は「あるうちに」と条件を示しているのだ。口語俳句の旨味を上手に使いこなしている、と言ってよいだろう。

◆マスクして都会を泳ぐ魚なり (廿日市市)和泉忠伸

大串章の選である。筆者の勝手な解釈だが、「魚」は人を表しているように読んだ。加えて「魚」は複数形であって、したがって人々、もしくは都会にいる人の群れくらいの意に解してみた。とすれば、インフルエンザの保菌者も、また感染しない様に用心している人たちもどちらもマスクが手放せないでいる都会に生活する日本人の生態を活写していることになる。

◆大声を出すは控へて福は内 (北海道鹿追町)高橋とも子

稲畑汀子の選である。評には「三句目。小さな声で福は内と豆を撒く」と記されている。大人になると恥ずかしさから屋外での豆撒きに声のトーンを控えたりするものだ。うちの中では比較的大きな声を出していてもだ。子供たちはそうでない。隣家の元気な子供の声が聞こえてくると、ふっと暖かい気分になったりする。これは都会の景なのかもしれない。

その百七(朝日俳壇平成28年2月29日から)
                          
◆着膨れて脳裏の軍歌声にせず (津市)田中保男

長谷川櫂の選である。評には「一席。「声にせず」の思いをひそかに思いやる。「着膨れて」に存在感あり。」と記されている。昨今の世相は政治が右寄りな分、庶民の言動は右翼思想や人種差別的言動を嫌うようになっている。それは全く自然なことなのであろうが、旧軍人の命をかけて戦った誇りと戦友との深い絆を確かめる意味合いでの「軍歌」も一方では存在するのだ。評にあるように「着膨れて」の状況の呈示と、「軍歌声にせず」の行為はたとえ詩の世界でなくとも緊張感をうみつつ、相互が一直線上に存在しない事もあって、この微妙な捻れ現象が掲句の枠組みを大きくしている。
筆者は全くの平和主義者である。誤解の無いように願いたい。

◆落葉籠底抜けてゐてなほも立つ (東京都)望月清彦

大串章の選である。底抜けして壊れ果てている落葉を入れる籠である。背負うほどの落葉籠であろうか、底が無くとも立っているのである。役立たずになっても立ち続ける籠には、一抹の寂しさと共にプライドも感じてしまう。男性句の典型であると考える。

◆ただ姉の顔見るだけの寒見舞 (西宮市)山際ヨネ子

稲畑汀子の選である。評には「一句目。共に齢を重ねてきた姉妹。訪れても、元気な顔を見るだけで別れてきた。寒中を見舞う作者の優しさ。」と記されている。句意には評以上の何かがあるように思われる。何らかの理由で話が交わせないのであろうか、と。十七音の中には表現していないので、読者が勝手に解釈すればよいことだろう。但し、どんな読みをしたところで評のように作者の優しさを感じ取ればいいのである。座五の季題「寒見舞」の包含する世界が十分に描かれているからだ。上五の「ただ・・」と中七の「・・だけ・」の重複が少々煩いように感じる。

◆老いれば乾く春愁は慈雨である (三郷市)岡崎正宏

金子兜太の選である。評には「岡崎氏。春は老人の心身ともに乾く季節だが、春愁がこれを潤してくれる。」と記されている。評の言う「春は老人の心身ともに乾く季節」なのであろうか?まだ解らない筆者だが、評者のような年齢の方が仰るのだから異論を挟む余地はないかも知れない。
乾いた老人の心が動いたのだ。たとえそれが「春愁」であったとしても、心が動いた事実だげで、十分に潤いを齎してくれるのだ。




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