2015年7月10日金曜日

 【時壇】 登頂回望その七十二・七十三・七十四/ 網野 月を

その七十二(朝日俳壇平成27年6月22日から)
                        
◆ふるさとの色に咲きけり花あやめ (長野市)縣展子

大串章の選である。評には「第一句。「ふるさとの色に」が一句の眼目。あやめの花を見ながら故郷を思い出している。」と記されている。筆者は、作者がふるさとを訪ねたのではないかと想像した。座五の季題「花あやめ」が咲いて、慣れ親しんだ故郷の色合いに染まっているのを見て、ふるさとを訪ねた実感を得たのではないだろうか?花そのものの色合いもさることながら、背景になる山河の色合いが「花あやめ」の色合いを相対的に決定しているのであろう。


◆粛粛と越える国境蟻の列 (青森市)小山内豊彦

大串章の選である。評には「第三句。粛粛と越えるのは「蟻」であれば問題はない。」と記されている。人の作ったものを自然はた易く超える。評にも掲句にも「蟻」が前提で、陸路の設定であり、自然界の凄みを詠じているのである。が、どうしても昨今の世界の情勢から本国と隣国の外交関係の構図を惹起してしまう。世界中にはままあることである。そうだとすれば「粛粛」は返って恐ろしい。

◆みとりつつ短き夜と思ひけり (横浜市)橋本青草

大串章の選である。晴れの日、もしくはあまり重くない曇りの日であろう。「短夜」は雨の日には感じにくいものだ。看病しながらその夜は、徹夜になってしまったなあ!?ということである。上五の「みとりつつ」は実際の行動であり、座五の「思ひけり」は作者の心の動きである。その対比が未明の感情を詳細に描写している。

◆更衣わけのわからぬ鍵一つ (松原市)加藤あや

大串章の選である。たぶん袖を通した夏着から鍵が出てきたのだろう。「わけのわからぬ」は、何処の鍵穴に合う鍵か判らないということだけではなくて、どうしてポケットに入れたままなのだろうという思いを加味している。梅雨明けくらいには思い出して欲しいものである。


その七十三(朝日俳壇平成27年6月29日から)
                         
◆朴咲いて朴の高さの戻りけり (京都市)村上一茶夫

稲畑汀子の選である。評には「二句目。緑に紛れていた朴の木の高さを白い花が教えてくれた。」と記されている。花が咲いてその樹の存在と高さを再確認したということである。桜にしても同様で、桜樹の在りかを花咲く時期に人々は探し求めることになる。年に一回その花を愛でる心の在り方は、自然への敬意であり、極めれば人自らの自己愛へも通じるものである。上五の「・・て」の原因と結果を結び付ける働きの助詞と、座五の「・・けり」の感嘆は、一句の中で共存するのは難しいように感じる。

◆滴りの失ふ如く生む如く (青森市)小山内豊彦

金子兜太の選である。一つの現象を二つの側面から語る表現方法のうち、その二つの側面が内容的に相反する部類の手法である。掲句は上五の季題「滴り」の形態と意味を「失ふ」と「生む」という相反する動詞で叙している。「滴り」を生じている岩の側から見てみれば水分を「失ふ」のであり、また「生」み出してもいるのである。「如く」の直喩表現は一定のリズムを作り出しながら、リフレインすることに拠って作句の狙いがはっきりし過ぎていて、型に嵌め込んだきらいがある。


◆大薔薇のまだ咲く力散る力 (神戸市)小嶋夏舟

長谷川櫂の選である。前掲句の表現方法に一面で通じるところがある。中七から座五の「咲く力散る力」は植物における時間の経過を叙しているだけではなくて、生についての反対のベクトルを表現する言葉でもある。中七の「まだ咲く力」は上五の季題「大薔薇」と「の」で連繋している。この「の」を所有関係の働きをする助詞「の」であるとする読み方があるだろう。また、半切れの働きをする「の」としても読むことが出来る。半切れを意味するものとすれば、中七座五の主語は作者自身か、「薔薇」以外の何者かに求めることも出来る。披講の難しさがある。


その七十四(朝日俳壇平成27年7月6日から)
                         
◆少年は全身が夏そして風 (三郷市)岡崎正宏

長谷川櫂の選である。少年と夏の取合せも少年と風の取合せも類想があるだろうが、少年と夏、風と三つものを取り合わせる仕方は現代俳句の若手作家のような作風である。筆者は全く作者と面識はないが、お若い方、もしくは溌剌たる精神の持ち主であろうと想像する。内容が優れているだけに内容に全体が傾斜していて、俳句的表現の旨味を活用しきれていないようにも感じる。

◆向日葵に太陽小さくなりにけり (岡山市)伴明子

大串章の選である。評には「第二句。向日葵の大輪が輝き、薄雲の上に小さな日輪が光る。」と記されている。確かにひまわりは大きく視覚に捉えられるし、日輪は南中位置に近いほど小さく見えるものである。地上にいる作者にとっては遠近法そのものである。ただ、物理的な捉え方にとどまらずに作者にとっては存在感や関心がひまわりの方により重くより広いということである。俳句の表現としては、座五の「なりにけり」の溜めの効果が、絶対的存在の「太陽」と勝負している様な構図になっている。

◆明易や夢の不思議を反芻し (東京都)田治紫

稲畑汀子の選である。まどろみの中で夢追う思考の繰返しを「反芻」と表現して効果大である。この比喩は秀抜であろう。筆者の師、山本紫黄はこの季題を「明易し」として叙述することに固執していた。「明易」は誤用・誤記であるとまで言っていた。師の指導だからと言う訳ではないのだが、上五の季題は「明易し」でも良かったのではないかと愚考する。むろん座五の「・・し」の叙法と抵触することになるわけで、作者は座五の叙法を優先したのだろう。掲句の場合上五「・・や」の切れの強さが強烈なだけに、より一層座五のおさめ方は難しい。



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