2014年11月28日金曜日

吉村毬子『手毬唄』書評~詩の到来を待つまでに~ / 田沼泰彦



吉村毬子の処女句集『手毬唄』は、ひとことで言って「評者泣かせ」の句集である。なぜならそこには、作品そのものの読解を助けようとするかのごとき作者の心配りが、過剰なまでの饒舌となって読者の前に開陳されているからだ。乱暴な言い方だが、その饒舌の数々を批評の俎上に載せるだけで、吉村毬子の俳句作家としての資質のあらかたをさらけ出すことができよう。つまり、そうした資質を捉えたうえでテクストを読み進めていけば、おおかた気の利いた句集評として、この新人作家の特性描写に説得力を持たせることは可能であろう。しかし、それはあくまでも、作家と評者が暗黙のうちに手を組み捏造した「物語」に過ぎない。「評者泣かせ」とは、そうした魅力的な「物語」を疑うところから批評を始めなければ、『手毬唄』の真実には届かないと思うからである。

もちろん「物語」を読み解くことが無意味だというわけではない。むしろ「物語」を押さえておくことは、それを疑うための第一歩でもある。それが作者自身の企図によるものなら、なおさら看過することはできないだろう。たとえば、目に映る物自体にも「物語」は宿っている。物自体とはこの場合『手毬唄』の装丁のことを指すが、本の表紙に巻かれた布地は、吉村の俳句作品に頻出する「水」のイメージを表す「水色」に染められている。そこには「毬」の一字が金で箔押しされているが、その文字は、吉村が敬愛する俳人である安井浩司の直筆色紙、「大鶫ふところの毬の中るべし」から採られている。こじつけかも知れないが、この句集が、安井の愛読書として、それこそふところにしまわれるほど大切にされますように、との吉村の願いが込められていると読むこともできよう。こうした物に現れた企図や願望には、自著を自らの分身(=肉体)として捉えたいという極私的な欲望が働いていると思われる。

著者の自著に対する欲望は、こと装丁だけには留まらず、当然のことながら作品テクストにも現れて然るべきだが、『手毬唄』の場合は少し事情が異なる。作品テクストを補完する意味合いで、短い散文テクストが巻末に二本掲載されているからである。一本は、吉村が所属する同人誌に掲出されたエセーの再録で、「景色」と題された原稿用紙六枚超の短文だが、「あとがき」には「自然から受ける恩恵で句作していることへの感謝を書き残しておきたかった」と控えめな言い方をしてはいるものの、いくつかの私的体験から派生した思考過程の背後に、自身の句作原理をほのめかそうとした「宣言」には違いない。

多分、それは景色であろう。私を取り巻く諸々の温度、陰陽、色彩、音、質感その全てである。(中略)日本という地の四季、風土記に浸りながら、あえかに生を閉じてゆくことが、現在の私の詩である。(『手毬唄』所収の「景色」より冒頭部分を引用)

文中「それは」とは、吉村自身の俳句観のことと思われるが、そうした概念の感覚化には、女性ならではの、あるいは女流特有の捉えかたと言えるだろう。女流という括りの良し悪しはともかく、吉村はどちらかといえば、女流俳人としてのこうした「女性性」にこそ、自らの詩的足場を確保しようとしていると思われる。そもそもの創作原理に関わる欲望と言ってもいいそれは、もうひとつの散文テクストでより明確に語られている。

それは巻末の「あとがき」のことだが、そこには三人の女流俳人の言葉が引用されている。一人は、戦後俳句を変革へと導いた高柳重信とともに、同人誌「俳句評論」に集った急進派をまとめ上げた中村苑子で、吉村にとっては文字通りの師である。また、三橋鷹女は苑子の一つ上の世代で、前衛的な女流俳人として伝説的な存在である。言うまでもないが、この二人はすでに故人である。三人目は吉村の同人仲間である豊口陽子で、前述した吉村が敬愛する俳人安井浩司の唯一の弟子である。「あとがき」は、この女性三人の言葉によって鼓舞された吉村の、俳句に対する決意「宣言」で閉じられている。

私の全身が変貌しようとも、私の血は私の詩である。(中略)この身の肉が裂け、血が迸り地に渇くまで、私は彼方の俳句を目指して書き綴っていかなければならないのである。(『手毬唄』の「あとがき」より文末部分を引用)

「全身が変貌する」とは、極端に言えば我が身が躯になってもということだろう。たとえ死が訪れようとも、吉村の体内を流れる血が詩であることに変わりはない。つまり、吉村毬子という「詩」は永遠だという願望のもと、自身の表現行為に対する決意が語られる。「私の血は私の詩である」という断定からは、短歌の世界ではあるが、これも女流における前衛歌人の代表的存在であった山中智恵子の、「私はことばだった。」という一語が想起されよう。このように「ことば」にしろ「詩」にしろ、作品世界を構築する原理そのものを、「私」や「血」といった主体そのもの、言うなれば自らの分身と捉える極私的志向こそは、女流作家に特有の存在様態であり、吉村とて決して例外ではないわけだ。

極私的な欲望と女性性という2つの観念(=物語)は、いずれ「肉体」という物質(私の血=私の詩=作品)へと収斂されていくのは当然で、『手毬唄』は極めて忠実にその物語をなぞって進んでいくと言える。巻頭頁と巻末頁から、それぞれ並んだ2句を引用する。

  金襴緞子解くように河からあがる
  日論へ孵す水語を恣(ほしいまま)

  菊石を抱く中陰の漣(さざなみ)よ
  水鳥の和音に還る手毬唄

きらびやかなうえに枷のように重たい「金襴緞子」を脱いだ「私」は、母鳥が卵を温めて生まれ出た子を伸び伸びと自由に育てるように、「私という言葉」=「水語」を我が意のままに扱って「私の血」=「私の詩」を創る。そうやってできた「私の肉体」と言うべき句がこの句集に収められた全てである。それは、やがて肉体としての死を迎えるが、魂となってふたたび蘇るまでのあいだ、アンモナイトのように身を丸くして、ただ波の音に耳を傾けていよう。その繰り返す漣は、いつしか手毬を突く単調な音となって、和音としての永遠を獲得するだろうから。

以上が『手毬唄』における物語の枠組であり主題である。この主題が、極私的な欲望という推進力を得て、女性性という水先案内に導かれ、様々な変奏曲となって物語を紡いで行く。そのようにして出来上がった織物は、水のように形を成さないという意味で自由であり奔放であるはずだ。それは、吉村が執着する女性性のことだ。そうした女性性は、吉村が崇拝する先達によってもたらされたものだが、それは吉村の欲望そのものと見事に折り合っている。欲望の主体である肉体=作品が、そうした女性性への欲望に極めて忠実だからである。それは、本句集の読後感に、ある種の安定感を付与している。さらにその安定感が、『手毬唄』の全体を通して、成功作という印象をもたらしている。

この書評はここで幕を引いてもよいかもしれない。つまり、吉村毬子の処女句集『手毬唄』は、作者の意図するポエジーが処女句集らしく極めて素直に作品全体を貫いており、吉村はこのポエジーを自らの肉体と刺し違えることで、水の如き永遠性を獲得しようとしていると、いささか長過ぎる印象批評を締めくくることは可能だ。これに次作以降への期待を込めれば、より立派な書評が完成するだろう。だが、吉村の俳句的資質を批評するのに、作者自身が企図した「物語」に同調し、そのお行儀のよさを「ささやかな成功」として拍手を贈るだけでいいのだろうか。そうした善意が、果たして作家の将来に有益なのだろうか。批評にまつわるこうした事情は、こと吉村に限った話ではない。特にネット上に蔓延(はびこ)る掃いて捨てるほどの書評や句集評が、都合のよい「物語」を捏造した挙句、「成功」をほのめかすことであらゆる方面からの反論に対する逃げ道を確保しようとしているように見えるのは、なにも筆者の疑心暗鬼によるものばかりではないだろう。

乱暴な言い方かもしれないが、吉村は『手毬唄』の冒頭で「金襴緞子解く」と書き付けながら、「金襴緞子」という「物語」を完全に脱ぎきってはいなかったのではないか。だから、「恣」なはずの「女性性」がかえって足枷のようになって、その作品を肉体の内へと閉ざそうとするのだ。『手毬唄』をなんどか読み通して感じるのは、こうした肉体的に感受し得る「閉塞感」だ。それは吉村の「極私的な欲望」に起因しているに違いないが、そこに原因を求めるのでは単なる印象批評に終わるだろう。この「閉塞感」をもたらしている大元には、俳句特有の原理が働いていると思われる。それは、俳句という「形式」と作者という「主体」との軋轢、あるいは俳句という「形式」と「詩」との齟齬、と言ってもよいだろう。つまり、吉村が企図した「物語」そのものが、俳句という文学形式にとって、ある種の反作用をもたらしているということである。そして、こうした反作用こそは、他でもない「俳句の欲望」によって引き起こされている。言うなればそれが、俳句という原理であろう。

あくまでも仮定の話だが、もし高柳重信ならば、こうした「俳句の欲望」を指して、それをも含めて「俳句形式」と呼んだかもしれない。重信ほど、「主体」やら「詩」やらを抹消し凌駕する「形式」の強さに対し、自覚的だった俳人はいないと思うからだ。そしてそれを彼は、「俳句の無間奈落(『敗北の詩』)」と呼んだ。鷹女にしろ苑子にしろ、重信のもとにいて、この「無間奈落」を垣間見たはずの数少ない俳人に違いない。そもそも吉村俳句に、先達が到達した「物語」を当てはめること自体が、時期尚早なのは否めないだろう。処女句集は「未来」という希望によって成立しているともいえるが、ならばはっきりと来世の見取り図を描くべきではないだろうか。

極私的な欲望であれ、女性性であれ、それはなんでも同じだと思うのだが、「物語」が足枷である以上、そこに執着することに意味はない。その執着から逃れるためには、いったん「俳句の欲望」に身を任せてみるのも手立てではないだろうか。『手毬唄』の中には、「俳句の欲望」に導かれたと思える句が数句登場する。掲載順に以下に引用するが、それは引用した七つの句にこそ、吉村俳句が辿るべき道行きが垣間見えるからに他ならない。

睡蓮のしづかに白き志(こころざし)
吊橋に遊ぶ祭りのだらり帯
月光へ抛る林檎を鹿と視る
蝉時雨何も持たない人へ降る
母とゐて蒼穹の鳶見失ふ
秋冷の鶏鳴く方へ片詣り
縄文の欠片遍く絞り神

これらの句は、詩的というよりは少しだけ写実が勝っていると思われる。それは日常的な世界を写したという意味ではない。俳句という日常が立ち上がっているという意味だ。つまり、「俳句の欲望」によって俳句が作られている。そこには、作者である吉村毬子の顔はない。この主体を抹消するとは、俳句にとっての、いや創作そのものの、「地獄降り」と言えるほど困難なことだ。が、「詩」とはおそらく、その後にしか到来しないはずだ。あえて言うが、吉村が自らの俳句的未来を賭ける場所は、そこにしかあるまい。(了)

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