昭和から平成にかけての乱痴気騒ぎの時代に思春期青年期を送った結果、自分が若いんだかそうでもないんだか曖昧模糊とした気持ちのまま今日に至っている。そんな時「鶉」を読んでいるとふと頬が緩む心地がする。ここにはお酒が好きで俳句が好きで妻が好きな三十路を迎えた男の子の姿がある。
秋蟬や死ぬかも知れぬ二日酔ひ
それぞれの悩み小さく鯊を釣る
声高き男の子から赤い羽
一句目。死ぬほどつらい思いを忘れて飲めるのが酒飲みの才であり、朝が来たら死ぬ死ぬ、とぐったりするのが正しい酒飲みの風情である。二句目。釣り糸を垂らす無聊の時を「悩み小さく」と言い切るのは至極正しい。神妙な顔をしてみたりもするが、おおむねたいしたことは考えていない。三句目、これを声変わりと言ってしまっては身も蓋もない。変声期を云々するとちょっとドキドキしてしまう。あなたも最前は男の子でしょう、とツッコミたくなるが、この構図が清新な気風を感じさせるのは音韻のせいかもしれない。「コエタカキオトコノコ」。濁音・半濁音を含まず続くo音が句の真ん中で打楽器めいて響く。
天高しこれが社長のキャデラック
秋風や大きな鯉のゐる暮らし
私が所属する「恒信風」同人・長嶋有氏に「かっこいいスポーツカーに顔写す」という句があるのを思い出した。スポーツカーや社長のキャデラック、池のでかい鯉、そうした金満家的なものを風景として感受し、風景として描写することができるのは、いつぐらいまでなのだろう。こうした風景には「ある感慨」があるのだが、見立てとしてのそれらは記号化が進み、ギャグの中でしか生きられないものになってしまいそうな予感がある。
闇汁に闇が育つてしまひけり
玉子酒持つて廊下が細長し
父は我がTシャツを着て寝正月
働かぬ蟻のおろおろ来たりけり
一句目。闇汁の最たるところを詠んでいる。何が入っているかあやしい汁が飲食の域を超える。「ボコッ」とか音をたてていそう。二句目。体調不良の景かどうかはわからないが、熱い玉子酒を持つこころもとない心象が「細長し」に見える。鼻の奥がつんとなる。三句目。子から送りつけられたり、置いていかれたり、実家というのは子供の不要な衣類のある場所だ。それを着てぬくぬくとする父。「朝寝してしかも長湯をするつもり」という句も見えたが、のんべんだらりとした空気が自虐にならず表されている。四句目。ハタラキアリという呼び名をされる蟻が、働いているようには見えないところ。それを「おろおろ」と言うのは蟻にとっての救済と、己の投影なのだろうか。
どの句もわしづかむような言葉遣いはなされず、ふかふかの掌でなでるがごとき表現である。頬が緩む遠因はそうしたことなのか。「男の子」という把握はふかふかの掌からきているのである。侮っているのでは決してなく、むしろ得難いポジションに対して贈る讃辞である。青春真っ直中な、ギラギラギシギシした、とんがった、触れなば斬らんみたいな風情ではない。青年が備え持つ体のなかで「ふかふか」や「おろおろ」が西村氏にはよく似合う。
へうたんの中へ再び帰らんと
青梅や孤独もそつと大切に
そんな中でひときわ「青く」感じられた句をひいた。一句目。句集冒頭の一連からであるが、いなし方がいなし過ぎではなかろうか。二句目。中七以降でろんと流れてしまったのではなかろうか。言いさしで終わる必然も感じられない。
いちゃもんを言ってみたが、これらの句もやはりふかふかとした印象を湛えている。今日ふかふかし続けることは至難のことであると思う。西村氏におかれてはぜひともその地蔵の面を撫づるがごときマジック・タッチを持ち続けていただきたいと願う。
以下、特に好きだった句を挙げます。
草城忌水玉もまた男傘
勇ましき室戸の波や宝船
ことごとく平家を逃がす桜かな
冷麦や少しの力少し出す
一句目。柄物は女物などと言わず、水玉模様のおおきな傘を差す。忌日に寄り添う句と思う。二句目。初夢に備えた宝船の絵の波、それが室戸沖の波ならさだめし高いことだろう。かなりいい夢が見られそうである。三句目。源平最後の合戦は文治元年三月。戦の手をうっかり止めてしまうほど見事な桜がひらいたら…と、桜の美しさを言うのにこれは反則な(ほめてます)景の大きさ、長さだった。四句目。究極に今日的な気配のする一句。力加減が命取り、とこれは本気で思うのだが、という文章がそもそも全力で少しの力を出しているようで気恥ずかしい。
ちょっと気を抜いて読むと最後の句は空気投げのことのように妄想してしまう。マジック・タッチの遣い手が「んほあ」と言っただけで相手がふっとぶ。合気道か酔拳か。これは油断できない。
【筆者略歴】
- 佐藤りえ(さとう・りえ)
1973年宮城県生。2005年より「恒信風」同人。著書に歌集『フラジャイル』。
http://www.ne.jp/asahi/sato/dolcevita/
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