2021年7月23日金曜日

英国Haiku便り[in Japan](23) 小野裕三


 俳人漱石の倫敦

「もう英国も厭になり候」

 と、漱石はロンドンから虚子に宛てた手紙に書いた。交通も通信も未発達な時代だから、ホームシック的な感情もあっただろうが、とにかく漱石はロンドン滞在を決して楽しんでいなかったらしい。漱石は二年間をロンドンで学び、その間に五回引越しをしたが、滞在の後半はひたすら書物を買い漁ってほぼ下宿に引きこもり状態だったという。渡英前は盛んに俳句を作った漱石も、渡英中はあくまで〝文部省派遣の英文学者〟として生きた。そんな漱石がロンドンで詠んだ俳句は、数えるほどしかない。

 空狭き都に住むや神無月  漱石

 栗を焼く伊太利(イタリー)人や道の傍  同

 霧黄なるまちに動くや影法師  同

 また漱石は、ロンドンや英国にまつわる随筆や小説も書き残している。「倫敦塔」が一番有名だろうが、その他にも「倫敦消息」「自転車日記」「カーライル博物館」等があり、また「永日小品」では多くの章が滞英中のことを題材とする。

「昨夕は汽車の音に包まって寝た。十時過ぎには、馬の蹄と鈴の響に送られて、暗いなかを夢のように馳けた。その時美しい灯の影が、点々として何百となく眸の上を往来した。」(「永日小品」)

 漱石は半ば幻想的にロンドンの街をそう描写する。一方、これらのどの作品を読んでも俳句に触れた箇所はほぼない。当時の漱石は、僕のような〝英国Haiku便り〟は書かなかった。その理由は簡単で、彼の暮らした英国には、Haikuのことなどほぼ影も形もなかったからだ。漱石は、ロンドン在住の日本人たちと細々と句会をするのみだった。彼は帰国後にこう書き記す。

「俳諧の趣味ですか、西洋には有りませんな。川柳といふやうなものは西洋の詩の中にもありますが、俳句趣味のものは詩の中にもないし、又それが詩の本質を形作つても居ない。」(「西洋にはない」)

 漱石の滞英は一九〇〇年から一九〇二年だが、実は一九一〇年にロンドンで大規模な「日英博覧会」が開催され、それ以降日本の文物がちょっとした流行になったらしい。その時期以降、西洋の文学者や芸術家の間で、俳句(当時はhaikaiやhokkuとも呼ばれたが)に影響されたという活動が散見され始める。その意味では漱石の滞在時期は少し早すぎた。そしてそれからたった百年ほどで起きた西洋でのHaikuの浸透には驚かされる。

 するとこんなことも夢想する。もし歴史の歯車がどこかで変わって、漱石のいたロンドンでHaikuが既に浸透し始めていたらどうだったか。漱石は、Haikuを愛好する英国の詩人たちと交流し、そんなことを興奮しつつ子規や虚子に書き綴っただろうか。とすれば、子規や虚子の俳句観にも影響し、俳句の歴史も大きく変わっていたかも知れない。

(『海原』2021年3月号より転載)

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