遠藤周作の作品で映画化されたものは大体見たが、私がいちばん好きなのは潜伏キリシタンへの弾圧を題材にした『沈黙』。そして登場人物で私にとってもっとも魅力的なのが「裏切り者」の象徴のような存在、「キチジロー」である。どうも他人のような気がしない。(笑)
カナリアや踏絵に美しき光沢
作者の眼差しの深さが伝わってくる。踏み絵を踏んだ「キチジロー」が重なり強い共感を覚えた。「光沢」には鳥肌。恐ろしい人だ。(笑)
日向ぼこ世界を愛せない鳩と
梅雨寒や戦争反対最後尾
憲法九条蟹の大皿来るまでは
人は自分の「生」を肯定しながら生きていく。それはとりもなおさずこの「世界」を肯定することでもある。しかし、「世界の現状」が「自分の生の肯定」と矛盾するとき、あるいは衝突するとき、人はどちらかを否定しなければならなくなる。全部か一部か。いずれにしても、そのことを明確に言語として発信したり行動で示したりすることは簡単なことではない。その境目に立ったことのある人間は、作者の思いが痛いほど理解できる。3句とも季語に新しい生命とエネルギーが吹き込まれている。梅雨寒の句の「最後尾」がたまらん。(笑)
暇そうな有刺鉄線みどりの日
草取や聖地メッカに背を向ける
みんな何かにすがりたがる。理由は簡単。その方が楽だと思うからである。しかし、実際は何かにすがって生きていくのも結構しんどいのではないだろうか。
かのニーチェは『ツァラトゥストラ』の中で、「神は死んだ」と書いた。「神の加護によって幸福がもたらされる」という考え方でずっと生きていると、自分自身についての価値観もしくは肯定感が希薄となり、人間は残りかすのような存在になってしまうので、人間としてもっと自分の力を信じるべきだ―というような意味なのだろう。句からは「日常のなりわい」の重さがひしひしと伝わってくる。
少女にも母にもなれずただの夏至
婚期かな前歯隠している兎
実印を作る雪女を辞める
こういう世界を「ニヒリズム」などという言葉で片付けることには反対である。まあ、一言で言えば、「視座」なのだ。俳句でもつくろうかという人が、誰でも思いつくようなことを書き並べて作品でございますなどとうそぶいていることがあるが、そういうレベルとはまったくちがう。さらに言えば、こういう句は「文学少女のなれの果て」(笑)が詠みたがる世界に隣接している。しかし、そのようでいてそのようでないところに作者ならではの「視座」がある。「技術」だけでは到達できない峰だと思う。
春の雲素顔ひとつに決められぬ
ぴったりの箱が見つかる麦の秋
はじめの句と2句目はどういう関係なのだろう。なかなか興味深い。「箱」でふと思ったのだが、私が最後に入る箱は多分他人がつくる。(笑) せめてぴったりの箱にしてほしい。 (笑)
とにかくこの句集、どこへ行っても、相変わらず「優等生の絵日記」のような俳句が幅をきかせている現状に、一石を投じる硬派の句集である。読み応えがある。観念論との距離感も清々しい。
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