2020年7月24日金曜日

英国Haiku便り(12)  小野裕三


「漢文」と「英文」

 言語をめぐる問題は、僕が英国で直面してきた切実な問いだ。
 もちろん一面では、英語の習得という課題でもある。一般的に言って、英語を話すことや聞くことは、(自分も含め)日本人の大半があまり得意ではない。その一方で、日本人は英語の文法知識がしっかりしてるよね、と外人からは指摘される。そんな姿は、どこか日本での「漢文」教育に似ていると思った。「漢文」はもともと中国語だが、それをどれだけ勉強しても中国語が流暢にはならない。中国語をできるだけ日本語に引きつけて理解するための、ひとつの便宜的手段が「漢文」だ。
 やや似たことが、日本での英語教育にも言えそうだ。それは、英語を可能な限り日本語に引きつけて解釈するための「英文」教育のように思える。「英文」を正確に理解する文法知識は身につくが、それは日常生活で英語を流暢に使えることを必ずしも約束しない。その関係は中国語と漢文の関係に似ている。
 この「英文」教育に決定的に欠けているのは、英語という日本語とは異なる言語をそのままの形で固まりとして受け止め、そのままの形で吐き出していくことだ。つまり、日本語とは異なる英語で思考する感覚に慣れること。この点において、長く「漢文」ならぬ「英文」教育を受けてきた日本人はきわめて苦手のように思える。
 このテーマは実は、決して外国語学習の話にとどまらない。
 先日、村上春樹の小説について英国の友人と話をした。彼の小説に最初に接した時、日本語の作品なのに、まるで英語で書かれた小説を読んでるような気がしました。僕がそんな話をすると、同席のイギリス人たちも「そう、そう」と大きく頷いたのだ。英語の眼から見てもその印象が同じだったことに驚いた。そして実は、村上春樹はデビュー作『風の歌を聴け』をまず英語で書き、それを自分で日本語に訳して作品にしたと言われている。英語圏の人に読まれることが目的ではなく、従来の日本文学の文体では自分の書きたいことが表現できない、と思ったのが理由らしい。僕も最近、実験的に英語で俳句を作ってみたりする。あくまで作る過程でそうするだけで、最終的には日本語に翻訳するのだけれど、自分の想像力を違う角度から刺激するような感覚があるのが面白い。各言語にはそれぞれの固有の重力のようなものがあるのだろう。
 興味深いことに、「language」という言葉は日本語の「言語」という言葉よりも使用範囲が広いようで、美術の領域でも作家の「作風」とか「独自の方法論」みたいな意味で「language」を使うことがある。日常とは違うもうひとつの「language」で思考し、その思考からそのまま作品を生み出す。文学も芸術も本当はそんなものかも知れない。
(『海原』2020年1-2月号より転載)

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