副題が「もともとの川柳日記」ということで、ページ(または見開き)ごとに冒頭に川柳が1句、それに続いて日記本文としての短文が続き、安福さんのイラストレーションが伴っている。文章の長さはまちまちで、20文字足らずのこともあれば、600字を超えているところもある。日記の内容は「したこと」や「考えたこと」「思い出したこと」「ひとから聞いたこと」など多岐にわたる。その日の出来事、というより、柳本さんの脳内で絶えず流れている川から、その日にひょいと掬われた水なのだろう、と思う。
そうした多岐にわたる話題、というか考えのなかに、これまた多岐にわたることごとが引用されてあらわれる。カフカ『審判』。フランソワーズ・ポンポン。浅沼璞。漱石。ベンヤミン。レムの『ソラリス』。映画『クレイマー・クレイマー』。ヒエロニムス・ボス。モリアーティー教授。チェーホフ『ワーニャおじさん』。
引用されるのはその日の本題となったことの背景だったり、きっかけだったりするものだ。
「もともとの川柳日記」は、日々を割り当てられた短いエッセイというのでなく、これはやはり日記だろう。肉体を以てしたことのみが日に記すべきことであるはずがなく、繰り返しになるが、脳内で絶えず流れている川から汲みうるその日の水が、ここには脈々と記されているのだろう。
短文そのものが詩のような箇所も随所にみられる。
わたしは、またうそをつきそうになる。うそはつきたくなかったから、わたしは、星ひろう。なんでもひろわないでねときみにいわれる。「はい」とこたえる。(9/11)
ひらがなの多い表記を読み違えないよう、拾うように読んでいくと、「なんでもひろわないでね」が窘めを含意しているように見える。「なんでもひろわないでね」を「なんでもない」に見間違えそうになる。たどたどしく読んでいく時間感覚が、直前の「星ひろう」「「はい」とこたえる」のさっぱりした時間感覚と拍子が違って、時計が狂ったような異次元感覚を味わう。
安福望さんのイラストレーションが本書を絶妙に彩っている。イラストレーションは全ページに添えられている。単純にその物量にも驚く。
安福さんの絵は鉛筆のような軽快なタッチの明確な線と、透明水彩や色鉛筆の、透明度の高い色彩が特徴的だ。線は明確なのにフォルムがどこか曖昧でおもしろい。熊、栗鼠、人間、猫、なにかを被った生き物っぽいものなどが、広大な色彩のなかに、わりあい小さくあらわれることが多い。
透明水彩は発色が美しく、明度の高い色や淡彩が幅広い表現を生み出すものであるが、同時に色面にムラができやすく、筆触のあとが残りやすい。そうしたムラ、にじみが画面にいろどりと生き生きした感じを与えているのが興味深い。
人生の間隙を突いて読むのによい本、と直感する。
ちょうどこの年の瀬、クリスマスをひかえて、また、クリスマスを越えて、年の瀬をかみしめて読むのに適していると思います。
最後に好きな句をいくつかひきます。
あまいだめなにんげん
(苺のにおいがしてる) (8/3)
へー魂にも歯があるんだ (10/3)
秋のポテトサラダ女の子が好きな女の子 (11/14)
春という汚い手書きで始まる詩 (3/1)
(春陽堂書店)2019年8月28日刊
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