2019年5月10日金曜日

寒極光・虜囚の詠〜シベリア抑留体験者の俳句を読む〜⑪ のどか

第2章‐シベリア抑留俳句を読む
Ⅱ小田 保さんの場合(3)

    帰還
 黒海見た捕虜も同車しナホトカへ
*シベリアで3度目の厳寒を目前にして帰還が決まり、ロシアの首都モスクワの下に位置しソビエトとヨーロッパの間にある黒海の付近に抑留されていた捕虜もシベリア鉄道の列車に同車しナホトカに向かった。黒海を見た捕虜とは、国際条約に守られた将校の一団のことを指している。ここで、「黒海をみた捕虜」とあえて詠っているのは、以下のようなエピソードによるものである。以下、『シベリヤ俘虜記』P.37〜39から要約を紹介する。
 アルチョーム第12収容所、柵を一つ隔てて国際条約に守られて働かぬ将校の一団もいた。(略)23年10月、帰還船・信洋丸はナホトカ岸壁を離れた。その夕方である。「全員上甲板へ集合」日本海は暮れようとしている。正面には肩を怒らせた職業軍人の一群がいた。アルチョームで柵越しに見た顔である。(略)その中には佐官級の将校も多かった。まるで私たち下級将校を見下す態度である。「神崎、お前がその張本人だ。前へ出ろ」職業軍人の一人が、神崎旧中将を甲板に、張り倒し、こずきまわした。
「無事日本へ帰れると思っているのか。日本海に漬けてやる」
「そうだ、そうだ。魚の餌食にでもなれ」
 そのことの起こりは、乗船前のナホトカにあった。岸壁に坐らせられた旧将校の一団を囲んで、帰還業務を担当している民主グループの数名が、火のでるようにアジった。
「私たちは旧日本軍の亡霊に会った。あなた達の半数は、いまだにピカピカの襟章をつけている。日本はいまアメリカ帝国主義の占領下にあるが、そんな襟章をつけたあなた達をアメリカ軍は歓迎してくれるでしょうか。シベリヤ・デモクラシーも実りつつあるが、あなた達は冷たく蔑視した。地球は確実に回転し、民主日本の再建は進んでいる。あなた達は浦島太郎だ。いまからでも新しい時代の夜明けに目覚め、猛反省していただきたい。」
このアジに呼応して、まず神崎が立ち上がり、彼ら顔負けの賛成をぶった。つづいて数名が立ち上がった。(略)
職業軍人の狼たちは、抑留生活の鬱憤を神崎を餌食に爆発させた。(略)
「お前も前にでろ。お前は週1回の特別休暇を、返上したというではないか。そんなにしてまでソ連に忠誠を尽くしたいのか」指は私に向いていた。一瞬?然としたが、「私は部下の窮状を見かねて、作業指揮を嘆願した形で作業大隊にでた。が、実際はソ連軍に狩り出だされて、みんなと苦労を共にしてきた。そんな私がアルチョームに来て、いまさら将校の特権として特別休暇をもらうなんて、これまで一緒に苦労してきた人達にすまない。ただそれだけの気持からだ。あなた達は収容所にいて働かないですんだ。働かされた私たちに、ご苦労さんというべきではないか。文句をつけられる理由は何もない」
彼らは言葉につまり、振り上げた拳のやり場に困った。
(『シベリヤ俘虜記〜抑留俳句選集〜』小田保編 双弓舎 昭和60年4月1日)
※左官級とは、軍隊の階級で、元帥・将官に次ぎ左官(代将>上級大佐>大佐>上佐>中佐>少佐>尉官)である。

 日本人打つ日本人暗し日本海
*政治教育により、シベリヤ・デモクラシーを信じた「アクチブ」とアクチブにより「ロシア語の通訳をしていたから、いい思いをしたに違いない。」という偏見から、仮想敵としての下級将校に対する妬みによりつるし上げを受け「反動」とされた者、アクチブたちからアジられた将校たちがいがみ合い、帰還船でのトラブルにより日本海の藻屑と消えた人たちがいた。

【小田 保さんの作品を読んで】
シベリア抑留俳句の殆どが、終戦の報を受け武装解除されてからのことを詠んだ作品が多い中で、小田さんの作品では、ソ連軍の侵攻直後からを詠んでいるところが他の人の作品と異なる。
千島列島での戦いやハイラル・索倫(ソロン)・富錦(フキン)・桂木斯(ジャムス)・東寧(トウネイ)・牡丹江(ボタンコウ)では、激戦が行われたと『関東軍壊滅す』P.171にはある。

 声のなき絶唱のあと投降す
 自動小銃抱くソ連兵より露語盗む
小田さんの作品には無季俳句が多い。全体の84句中27句が無季俳句である。またこの考察の中では、無季俳句を多く取り上げてしまった。
戦闘という状況を即時に切り取る中で、季語の省略は記録性を高めるうえでむしろ効果的であったと思われる。
 敗戦にみな焼く万葉集だけ残し
この句からは、戦争にかかわる資料を焼いた中で、万葉集だけを残した。何度も繰り返えされる検閲や略奪をかいくぐって、小田さんの心の支えとなった万葉集。5・7・5の調べは日本人の心の歌である。
 万葉集持つことも反動スウチャンへ 
小田さんは、手帳や万葉集を持っているのを見とがめた仲間の密告により、反動分子として、ウラジオストックからさらに奥地のスウチャンへ送られる。シベリアにおいて奥地に送られることは死を意味する。ノートや万葉集を没収されてからは、今まで詠んだ俳句を暗記したという。このことから小田さんのシベリアでの生活を常に支えたのは俳句であった。
 日本人打つ日本人暗し日本海 
帰還船での日本人同士の仲間割れで消された人たちの無名の名簿を日本海名簿と言うそうである。シベリア抑留体験の語り部の体験でもあまり語られるケースの少ない、政治教育や吊し上げの体験を詠まれていることがシベリア抑留の「極寒・飢え・重労働」の三重苦に政治教育がのしかかった人の暗部を物語っている。
小田さんは、苦労して記憶して持ち帰った自らの抑留詠をまとめるのみならず、戦後40年を経た昭和60年に、シベリアで詠まれた俳句を集めて、「シベリヤ俘虜記」を平成元年には、欧露における俳句集団のアンソロジーもまとめ、「新・シベリヤ俘虜記」を刊行した。
平成元年からすでに31年を経過した現在、時間の経過と伴に、薄れてゆくシベリア抑留の記憶と亡くなっていく生き証人たち。このような事実においても、小田さんの仕事は貴重である。

参考文献
『シベリヤ俘虜記〜抑留俳句選集〜』小田保編 双弓舎 昭和60年4月1日
『続・シベリヤ俘虜記〜抑留俳句選集〜』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日

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