2014年12月12日金曜日

 登頂回望その四十三・四十四・四十五 / 網野 月を

その四十三(朝日俳壇平成26年11月24日から)
                        
◆果なきは青きことなり秋の空 (大和郡山市)中西健

長谷川櫂選である。評には「三席。こんなに青い空の下、人はなぜ瑣事に追われるのか。自省の一句?」と記されている。評は作者の自己存在を句中に意識している。自己投影とは若干ニュアンスが異なるが、作者の心境を慮っての句の解釈なのである。が座五「秋の空」の季題を上五中七で表現していると、素直に受け取ってもよいのではないだろうか?

果てしなく青い秋の空は、ポジティヴな表現である。当然のことに大自然に比べれば人間の何と小さいことか!その小さいことに比して自分自身の小ささをネガティヴに受け取るのか、それとも小さいながらも自分自身を大自然に投げ出して自己をも自然の一部であろうとしてポジティヴに受け取るかは夫夫の心の持ち方である。失礼ながら、この選評は評者・長谷川櫂自身の思いを重ね合わせている評ではないだろうか。当然のことであるが句の解釈は読み手の自由である。それでも筆者は、決して作者は瑣事に追われる自己を叙しているのではない、と考えたい。

◆枯蟷螂命ばかりとなりにけり (いわき市)馬目空

長谷川櫂選である。「枯蟷螂」は未だ骸とならない状態であるから、中七座五「命ばかりとなりにけり」は「枯蟷螂」のことである。「枯蟷螂」を視る作者の目は、「枯蟷螂」を鏡として自己をその中に見出しているようにも読める。一読、シリアスな印象を与える句であるが、読み返すうちに作者の清々しい心境を句底に見出すことが出来た。後は次代へ生を継ぐだけである。実はそれが大仕事であるが。

「なりにけり」の措辞が、大きなタメを作り出していて、重荷を下ろして身軽になった感があるのだ。逆説的ではあるが、心が軽くなる思いである。

◆稲妻に一瞬顔を見られたり (稲沢市)杉山一三

大串章選である。座五の置き方は典型的な俳句の手法である。稲妻が光って、その一瞬に顔が露わになった、ということである。ところで誰に見られたのであろうか?上五「稲妻に」とあるので稲妻を擬人法的に捉えて、顔を見たものが稲妻のようにも読めるところが面白い。



その四十四(朝日俳壇平成26年12月1日から)

                        
◆教授会の窓の黄落数えつつ (川崎市)藤田恭

大串章選である。会議中に「窓の黄落数え」るとは羨ましい限りである。筆者は窓を背にした席が会議の定位置なので窓外を眺めるチャンスが無いのだ。それにしても最近は大学の経営も大変なようである。二○一八年からは同学年人口が百万人を割り込むとかで、大学は冬の時代を迎える。定員割れした学部学科の閑散とした様子が黄落の梢と重なる。作者は然程、深刻ではないようだが。
掲句は句中に切れの無い句作りであり、合わせて座五も「・・つつ」として完全に切らないで流している。作者の心の、終日揺蕩うような様子を表現しているのであろうか。

◆まだ風に応ふる力枯尾花 (浜田市)田中由紀子

稲畑汀子選である。評には「一句目。すっかり枯れきってしまわない芒。しなやかに風に応える情景が野を彩る。」と記されている。評とは別の見解になるが座五に「枯尾花」とあるので、この芒は枯れきっているのではないだろうか?もちろんすっかり枯れきってしまわない態と枯れきった態のボーダーラインはないだろうが。筆者はしなやかに風に合わせる芒ではなくて、枯れて幾分硬直化して棒立ちの芒を想像する。棒立ちになっても風に合わせている「枯尾花」を想像する。植物の枯れ果てて猶も「応ふる力」に驚嘆しつつ憧れているのではないか。頭付きの「まだ」が作者の最もいいたいことなのだ。


◆くりのみはいろんなごはんつくれるよ (東京都)福元泉

金子兜太選である。評には「十句目福元くん。おとなには浮かばない発想の楽しさ。」と記されている。上五が団栗ならままごと遊びとなるところだが、「くり」とあるので栗尽くしの料理を想定してみた。茹で栗、甘栗、の他に炊き込みの栗ご飯、栗きんとんなどなど、栗を使用した料理のヴァリエーションは多い。どのような機会に福元さんは「いろんなごはん」を知るに及んだのだろう。一番良いところは言わないで、「くりのみ」の可能性のみに十七音を傾注した。将に楽しい発想である。


その四十五(朝日俳壇平成26年12月8日から)
                          
◆冬の河丸太ん棒のかく鼾 (東京都)藤野富男

金子兜太の選である。初め材木を筏に組んで川に流し、運搬しているのかと想像したが、それでは鼾をかくわけはないのであって、「丸太ん棒」の位置は河原か、もしくは川の近くの空間であろう。「冬の河」が冬らしく水量を控え目にして流れているので、元より寒さを物ともしない「丸太ん棒」は鼾をかいて眠っているというのであろう。上五の季題と中七座五の意味合いの距離感が心地よい。両者の付け合いの空白を読者は想像して読むわけだが、その想像が楽しくなるような句である。「丸太ん棒」も「鼾」もユーモラスな語感を有するので、「冬の河」から寒々とした荒涼が浮かばないのである。本来言葉自体が持つイメージを活かしきっている。

◆夢に来て母の煮込める八つ頭 (久喜市)笠原ひろむ

金子兜太と長谷川櫂の共選である。夢に出て来たのは「母」であり、その「母」が「八つ頭」を煮込んでいるのであろう。が、助詞「の」は如何なものであろうか?「の」の引力と、加えて五七五の必然的なリズムの在り様から生まれる上五の切れで、「八つ頭」が「夢に来」たようにも読めてしまうのである。もちろん「八つ頭」も夢に登場するのであろうが。そうなると上五の「て」の工夫が欲しいところかも知れない。

正月料理に八つ頭を料理する母の姿は誰しもメモリーとして心に残るもので共感する。

◆マフラーを借りて返さず十五年 (仙台市)柿坂伸子

大串章の選である。評には「第三句。前書に「夫より」とあり。」と記されている。さぞかしラブラブの十五年であったろう。前書の主旨は世間に対して誤解を招かないための辞のようでもある。中七の「借りて返さず」の「て」が筆者には過度に強く響いてくる。「十五年」が微妙な年限であり、絶妙だ。二十代、三十代の人には解せない感覚である。

もしかしたら、十五年前はまだ夫ではなかったのかも知れない。



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