ドラマは3句目から始まる。佳句を集めてゆく。
「青々と腐敗」や「毬落ちて」のマイナス軸への文脈に引きこんで「始まり、始まり」というスタートであった。
解夏のはじまり丁寧に反故濯ぐ
石女の白露の水を授かりし
臨月を知らぬ木とゐて良夜尽く
虚空にて沐浴の二月十五日
掲4句、全て一人称単数からの呻きである。「解夏」の籠りも、「石女」の「白露の水」とは、ほぼ〝不生女〟のレッテルに甘んじる絶望も、「良夜尽く」も、暗黒に落ちゆく事も、いっさいが生命を阻む方位を示現している。「沐浴の二月十五日」がどんな日であったかというより、恥辱を雪ぐ清潔さへの願いのきっかけがあったのか。とすれば、嘆く前に新しい現実として眼前の風景を認識しようとのアクションの発生が胎動しているようだ。
水底のものらに抱かれ流し雛
踊り場へ落ちる椿も風土記かな
かの花野膜鳴楽器だけ響く
階段に海の残光かなかなかな
水際の空葬(からとむらひ)や昼の虫
これも全て一人称単数。周囲に向けるまなざしは不要の季節であろう。1句目の「水底ものら」とは平家一族か、水子たちか。「流し雛」化したのは想像がつくが、幾たびも多様な代名詞によって表示される。2句目の「椿」がそれであろうか。3句目の「花野」は死者たちの集合地帯のよう。打楽器の皮膜の残響のごとき重低音か、夜鳴きのしゃくる声か。「階段」は「踊り場」と共に都会の喩か、そこに「海光」が届いている。悲痛感をさそう、ひぐらしの声にも似て。終句の「昼の虫」はそのまま受けとりたいと感じるのは、三人称の世界の登場らしく、初めて作者の周囲で発した他者の声である。しかし、その「虫」の声がしみじみとは聴こえず「空葬(からとむらひ)」にしか感じられないのだ。しかも、まだまだ「水」ぎわという生死を分ける場所から離れてはいない。が、他者(ここでは虫)の声が耳に入ったことは重要なファクターが内面世界に生まれたことを示唆している。
毬つけば男しづかに倒れけり
毬の中で土の嗚咽を聴いてゐた
この2句は「章」を跨っているが、単数の一人称化が、全く次元を変えて等しい内容の2句になっている。「男」をじっくりと客体化しているし、自身の「嗚咽を聴いてゐた」と自らを過去史の中につかんでいる。そしてそのリアクションを次のように演じてみせた。これ以上の深みはないのだ。
身八ツ口春の真闇を捨つる処 自身を自身から捨てる
静寂を幾重に折りて羽とする 努力の物証化を得る
空蟬を海の擬音で包みをり 潮騒も生命リズムになる
さねさしの嬥歌の畳語うそ寒し ライトヴァースの本質を見た
みな一人称単数で、作者が最も独自性を示すのみならず、言葉の斡旋にまで、文法上強靭な態度を要求した。先ず、体言を受けての格助詞「真闇を」「静寂を」「幾重に」(この「に」も格助詞の位置で心理方向を明示するエネルギー)、「する」(普通、自動詞で、現れる、在るで〈自動詞である〉が、サ行変格では、他動詞で自分から行う、為(す)る、の活用)、「包み」(つつむ、にいかず、連用形の音〈み〉を選んだ)、さらに「嬥歌」(かがい、の音は漢音ではなく、やまとことばを映したもので、かがい=かけあう=掛け合う=男女かけつけあつまる)、そして「寒し」へ、活動する感覚語の活用が多い。さて、こう並べてみると作者の心情がきわだって、強くねばり、しなやかに尽きるまで、となる。
夜の梅 ゆつくりと真水に還る 真水に還る、が、ずしんと響く
遠景に解かるる手足左様なら ほったらかしの自分を迎えに出かけた
この2句はP70~P76の句群の心理構造の成立したことを伝えている。
この辺りに巻頭2句を選んでみる。
金襴緞子解くやうに河からあがる
日輪へ孵す水語を恣
=は、言葉を支配する側が意味やイメージを操るときの態度からしか出てこない言葉なのだ。「解く」も「孵す」も他動詞、「に」も「を」も、これを逆に言うと「鬼に会ったが帰る」の意志伝達を含み、全て支配者からの発想ではない。よくここまで自らを転位させたと感動さえ覚える。
雪虫を妊るための諷誦かな 願いや望みは下五のねばりに出る
鳥曇りしづかに壊す自鳴琴 俳句形式をプラスに転じさせた
前句がいう「諷誦」も自省をこめて深まってもいいし、「壊す」という他動詞が使えるなら「自鳴琴」という自動装置であった自己と向きあう季節のただ中に立つのも可なり、だ。さらに、自称を越えた他称と同席しあう句群の登場を言祝ぐ。
謳はれし青い訛りを被ふ山 自己の三人称、新しい自画像へ
走り根よ雨乞ひ唄へ還る雨 「よ」は相手(二人称)への呼びかけ
晦の海を眇める山が綺麗だ ――自分讃歌の、これはチャーミングだ!
3句目は「眇める山」という「私」が「綺麗だ」と断定しえた人は、2人目である。最初の女性は現代詩の茨木のり子、「わたしが一番きれいだったとき」。この口誦感は、いささか気がゆるんだぬくもりを感じさせてユニーク。あとは、毬子的日常に、一人称単数の姿として現われてくれるかということである。
家に棲む真水は母を繰り返す 母(又は自分)とはそういう事だ
水琴窟 獣たちが廻つてゐた 誰の過去も曳きずられている
母は母のイメージを繰り返し、水琴窟だった「私」は記憶が歴史に変質するまでの「獣たち」と見做された「正体」こそが、おぼろへと「廻つて」去っていくのだ。それが日常のかなたであり、さいわいな事に吉村毬子は巻末に次の1句を配置して、どこかに脱いである金襴緞子の片わらに空間をつくっていた。
水鳥の和音に還る手毬唄 元気で次作へと方向景を。
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